『撰時抄』には、 「機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり」(御書 八四六頁) と、末法においては、相手の機根に従って法を説くのではなくして、もともと末法の衆生は本未有善(うぜん)の衆生なるが故に、強いて妙法を説くべきであると仰せられているのであります。 次に「其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ毀られ、或は打たれ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しもこりもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり」と仰せであります。 この御文は前段におきまして、末法の世にあっては、無智の人には機根にかなうか、かなわないかを顧みず、強いて法華経の五字、すなわち妙法蓮華経を説いて受持させるべきであると仰せられましたが、その範例として不軽菩薩を挙げられているのであります。 すなわち、法華経不軽品を拝しますと、 「時に増上慢の四衆の、比丘(びく)、比丘尼(に)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(い)の、是(こ)の人を軽賎(きょうせん)して、為に不軽の名を作(な)せし者、其の大神通力、楽説(ぎょうせつ)弁力、大善寂力(だいぜんじゃくりき)を得たるを見(み)、其の所説を聞いて、皆(みな)信伏随従す」(法華経 五〇二頁) とあります。 御承知のように、不軽菩薩は威音王(いおんのう)仏の滅後、像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして、会う人ごとに対して専(もっぱ)ら礼拝(らいはい)を行じたのであります。 また、遠くにいる人に対しても、 「我敢(あ)えて汝等(なんだち)を軽(かろ)しめず。汝等皆、当(まさ)に作仏(さぶつ)すべきが故に(私は、あえてあなた方を軽んじません。あなた方は必ず仏と成るべきであるからであります)」(同 五〇〇頁) と言って礼拝をしたのであります。 しかし、増上慢の四衆、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷らは、不軽菩薩に対して瞋恚(しんに)、怒りの心を生じ、 「この無智の悪比丘は、一体どこからやって来たのか。自分で『私は、あなたを軽んじたりしない』と言って、我らのことを『必ず仏に成ることができるだろう』と予言しているが、我らは、そのような偽(いつわ)りの予言などは用いない」(同頁 取意) と反発して、不軽菩薩を軽んじ、悪口罵詈(あっくめり)したのであります。 だが、不軽菩薩は悪口罵詈されながらも、瞋恚の心を生ぜず、常に、 「汝(なんじ)当に作仏すべし」(同 五〇一頁) と言って、礼拝行をやめなかったのであります。 そのため増上慢の四衆は、不軽菩薩に対して杖木瓦石(じょうもくがしゃく)をもって打擲(ちょうちゃく)し、迫害を加えたのであります。 しかし不軽菩薩は、くじけず、それを避けて遠くに行き、それでもなお声高(こわだか)に、 「我敢えて汝等を軽しめず。汝等皆(みな)当に作仏すべし」(同頁) と言って、礼拝行を続けたのであります。 ひたすら礼拝行を続けた不軽菩薩は、その功徳によって、命(いのち)終わらんとする時に至って、威音王仏の説かれた法華経を虚空(こくう)のうちに聞いて、ことごとく受持して六根清浄を得、六根清浄を得終わって、さらに寿命を延ばすこと二百万億那由他(なゆた)歳、その間、広く人々のために法華経を説いたのであります。 その結果、かつて不軽菩薩を軽蔑(けいべつ)し、悪口罵詈し、杖木瓦石をもって迫害した増上慢の四衆、すなわち不軽菩薩を軽しめ「常不軽」と名づけた者達も、不軽菩薩が大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たるを見るに及び、また、その説くところを聞いて皆、信伏随従するに至ったのであります。 大神通力とは、身に神通力を示現(じげん)することであります。 楽説弁力とは、自在無礙(むげ)に弁舌する力であります。 大善寂力とは、心に禅譲、すなわち心を静めて真理を観察し、心身共に動揺することがなくなり安定した状態を得ることであります。 不軽菩薩を迫害した増上慢の者達も、さすがに不軽菩薩の大神通力、楽説弁力、大善寂力を見て、ついに信伏随従するに至らざるを得なかったのであります。 思うに、折伏には説得力が必要であります。 私達も不軽菩薩と同様に、大神通力、楽説弁力、大善寂力を得ることができれば、おのずと我らの身口意(しんくい)の三業にわたる所行のすべてが折伏に役立つ、強烈な説得力を持つことになるのであります。 相手の信頼に足(た)る言葉、行い、意(こころ)がなければ、折伏は成就いたしません。 されば、私どもが大御本尊様への絶対信をもって自行化他の信心に励む時、妙法の広大なる功徳によって自らが変わり、その姿を見て相手が変わり、折伏成就に至るのであります。 御承知の通り、今、宗門は平成三十三年の大慶事を迎えるに当たり、各講中ともに僧俗一致・異体同心して折伏戦を展開しています。 この時に当たり、私ども一人ひとりが、不軽菩薩の行化(ぎょうけ)がそうであったように、自らの信心を錬磨し、一人でも多くの人に折伏を行じ、誓願達成へ向けて飽(あ)くなく努力を続けていくことが肝要であります。 大聖人様は先程の御文に「末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり」と仰せられています。 我々はこの御文を拝し、いよいよ講中一結して自行化他の信心に励み、もって必ず本年度の折伏誓願を達成し、大御本尊様の御照覧を仰がれますよう心から願い、本日の挨拶といたします。 (大白法・平成30年9月16日号より抜粋) (平成31年1月掲載) |