「過去遠々(おんのん)の重罪をば何(いか)にしてか皆集めて今生に消滅して未来の大苦を免れんと勘(かんが)へしに、当世時(とき)に当たって謗法の人々国々に充満せり。其(そ)の上国主既に第一の謗法の人たり。此の時此の重罪を消さずば何(いつ)の時をか期(ご)すべき」 とお示しであります。 過去遠々劫の長い間の重罪を、なんとしてでも皆集めて今生で消滅し、未来の大きな苦しみを免れたいと考えたところ、今の世は謗法の人々が国中に充満している。 その上、国主が第一の謗法の人であるという厳しい状況ではあるけれども、この時にこそ過去の重罪を消滅しなければ、再びこのような機会はない、とおっしゃっているのであります。 すなわち、この御文は、今生に誹謗正法の重罪を消そうという考えから、日本国中の謗法の人を叱咤(しった)して、それによって怨嫉(おんしつ)を買って種々の難に値(あ)っても、やがて過去からの罪障を消滅することもでき、同時に衆生救済の所願も成就することができると述べられているのであります。 これは、我々が折伏する上で非常に大事なことです。 やはり、折伏は勇気を持ってしなければなりません。 逆に、折伏すれば相手が怒ってしまって、今まで培(つちか)ってきたところの友情とか、あるいは様々な良好な人間関係も崩れてしまうと考え、それならば控えておこうと思ってしまったならば間違いです。 そうではなく、そういった本当に親しい人にこそ、この仏法を勧めていかなければならないのです。 「折伏すると仲が悪くなってしまうからいやだ」などと言っているようでは、これは本当の信心ではありません。 むしろ、本当に大切な自分の知人、友人、周りの人達であればこそ、私達は折伏をしなければならないのです。 折伏はけんかを売るのではありません。 折伏と言うと勘違いしてしまって、なんでも気張って、怒鳴ったりする人もいるのです。 しかし、そうではないのです。 やはり普段のお題目がその人の人間性を培って、その人間性が相手を感化するわけです。 ですから、お題目を唱えていないと、どうしても修羅闘諍(とうじょう)の心が先に立ってしまって、怒(いか)り心頭に発して、けんかになってしまうのです。 折伏はけんかとは違います。 けんかするのではないのです。 まさか、けんかするのが立派なようには思っていないと思うけれども、邪宗邪義をやっつけなければいけないと息巻いて、勘違いしているような振る舞いをする人もおるのです。 もちろん、邪義邪宗は破折しなければいけませんが、相手の人間性まで、けちょんけちょんに言うようなことをしてしまってはいけないのです。 みんな仏性を持っていて、その仏性を活(い)かすことが大切です。 これが折伏ですよね。 そのところが解らないといけません。 ですから折伏をする時には、まず御自分がお題目をしっかり唱えて、自分の命のなかに慈悲の心を持つのです。 心に仏界の生命が顕れてこないと、本当の折伏はできません。 むしろ、けんかになってしまいますから、このことは皆さん重々知っていらっしゃると思うけれども、気を付けていただきたいと思います。 (大白法・平成30年8月1日号より抜粋) (平成30年11月掲載) |