謗法を厳しく誡(いまし)めることは本宗の宗是であります。 されば『秋元御書』には、 「常に仏禁(いまし)めて言はく、何(いか)なる持戒智慧高く御坐(おわ)して、一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵(かたき)を見て、責(せ)め罵(の)り国主にも申さず、人を恐れて黙止(もだ)するならば、必ず無間(むけん)大城に堕(お)つべし。譬へば我は謀叛(むほん)を発(お)こさねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪(よどうざい)は彼の謀叛の者の如し。南岳大師(なんがくだいし)の云はく『法華経の讐(あだ)を見て呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん』と。見て申さぬ大智者は、無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出(い)づるべからず」(御書 一四五三頁) と仰せられております。 解りやすく申し上げますと「仏は常に誡めて仰せられるには、いかに堅固に仏教の戒律を持(たも)ち、また智慧が勝(すぐ)れていて、一切経ならびに法華経に詳しく通じている人であっても、もし法華経を誹謗する者を見ていながら責めることもせず、また国主にも申し上げず、人を恐れて黙っているならば、その人は必ず無間地獄に堕ちるであろうと説かれている。それはあたかも、自分では謀反を起こさなくとも、謀反を知りながら国主にもこれを知らせることをしなかったならば、その与同罪は謀反人と同じ罪になるようなものである。南岳大師は『法華経の敵を見て、呵責しない者は謗法の者である。無間地獄に堕ちる』と言われている。されば謗法の者を見ても何も言わない者は、どんなに大智者であっても無間地獄に堕ちて、地獄のあらん限り出ることはできない」と厳しく仰せられているのであります。 すなわち、たとえ信心をしていても、自行ばかりの信心にして、謗法の者を見ても、ただ黙っているばかりで折伏もしない者は、どんな大智者であったとしても謗法を犯している者と同じであると厳しく御教示あそばされているのであります。 されば『南条兵衛七郎殿御書』には、 「信心ふかき者も法華経のかたき(敵)をばせ(責)めず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(同 三二二頁) と仰せられているのであります。 私どもはこの御金言を拝し、私どもの信心にとっていかに折伏が大事であるかを肝に銘じて、 「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(同 六六八頁) との御金言を胸に、一意専心、折伏に励んでいくことが一生成仏のためには最も肝要であります。 (大白法・平成31年1月16日号より抜粋) (平成31年4月掲載) |