日蓮正宗 昭倫寺

日如上人御言葉 唱題行(1月2日)の砌

 令和2年1月2日 於 総本山客殿 

大聖人様は『種々御振舞御書』に、
「各々(おのおの)我が弟子となのらん人々は一人もをく(臆)しをも(思)はるべからず。をや(親)ををも(思)ひ、めこ(妻子)ををもひ、所領をかへりみることなかれ。無量劫(むりょうこう)よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵(みじん)よりもおほ(多)し。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども、かゝる事出来(しゅったい)せしかば退転してやみにき。譬へばゆ(湯)をわかして水に入れ、火を切るにと(遂)げざるがごとし。各々思ひ切り給へ。此(こ)の身を法華経にか(替)うるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり」(御書 一〇五六頁)
と仰せであります。
大聖人の弟子と名乗る者は、一人でも臆病(おくびょう)であってはならないと仰せであります。

されば『教行証御書』には、
「日蓮が弟子等は臆病にては叶(かな)ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何(いか)にも況(いわ)んや其(そ)の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗(ごんしゅう)の者どもをや」(同 一一〇九頁)
と仰せられ、妙法広布に励む者は、いかなる難敵・強敵にも恐れることなく、勇躍として折伏に励み、けっして臆してはならぬと仰せられているのであります。

まことに厳しいお言葉ではありますが、ここまで徹底していく信心こそ、一生成仏にとっては大事なのであります。

(大白法・令和2年1月16日号より抜粋)

(令和2年3月掲載)