大聖人様は『上野尼(あま)御前御返事』に、 「法華経と申すは手に取れば其(そ)の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即(すなわ)ち仏なり。譬へば天月の東の山の端(は)に出(い)づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひゞきとの同時なるが如し。故に経に云はく『若(も)し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せずといふこと無けん』云云。文の心は此(こ)の経を持(たも)つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり」(御書 一五七四頁) と仰せであります。 すなわち法華経以前の経々の功徳は、先に善根を積んで、そのあとに仏に成ると説く故に成仏するかどうかは定まっていない。 しかるに法華経は、方便品に「もし、法を聞く者があれば、一人として成仏しない者はいない」と説かれております。 すなわち法華経を持つ者は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人も欠けずに仏に成ることができると仰せられているのであります。 されば今、私どもはこの御金言を心から拝信し、戒壇の大御本尊様への絶対の信をもって、強盛(ごうじょう)に自行化他にわたる信心に住し、いかなる障魔も打ち砕き、いよいよ明年に迫った宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の誓願達成を目指し、尽力されますよう心から願うものであります。 (大白法・令和2年8月16日号より抜粋) (令和2年11月掲載) |