ひたすら礼拝行を続けた不軽菩薩は、その功徳によって命が終わらんとする時に、威音王仏の説かれた法華経を虚空(こくう)のうちに聞いて、ことごとく受持し、六根清浄を得(え)終わってさらに寿命を延ばすこと二百万億那由他(なゆた)歳、その間、広く人々のために法華経を説いたのであります。 その結果、かつて不軽菩薩を軽蔑(けいべつ)して悪口罵詈し、杖木瓦石をもって迫害した増上慢の四衆、すなわち不軽菩薩を軽しめて「不軽」と名付けた者達も、但行(たんぎょう)礼拝の功徳によって不軽菩薩が大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たるを見て、また、その説くところを聞いて皆、信伏随従するに至ったという話であります。 このなかで大神通力というのは身に神通力を示現(じげん)することであります。 また、楽説弁力というのは自在無礙(むげ)に弁舌する力で、大善寂力というのは心に禅定を得ることであります。 この禅定とは、心を静めて真理を観察し、心身共に動揺することがない安定した状態で、この三つを得ることができたのであります。 『法華文句』には、この三力を身口意(しんくい)の三業、および衣座室の三軌に配しておりまして、 「不軽菩薩が、一切衆生に仏性ありとして人々を軽んぜず、深く敬ったのは、衣座室の三軌のうちには如来の座に当たる。悪口罵詈・杖木瓦石の難を忍んだのは如来の衣を著(き)るに当たり、慈悲の心をもって常に礼拝行を続けたのは如来の室に当たる。また、不軽菩薩が四衆を深く敬ったのは、身口意の三業に当てはめれば意業に当たり、『我深く汝等を敬う』等の二十四字を説いたのは口業に当たる。そして故(ことさら)に往(ゆ)いて礼拝するのは身業に当たる」(学林版文句会本下 四五一頁趣意) とおっしゃっております。 すなわち不軽菩薩は、この礼拝行を通して衣座室の三軌を身口意の三業にわたり行じた功徳によって、大神通力等の三力を得、また、これを目(ま)の当たりにした増上慢の四衆も、さすがに不軽菩薩に信伏随従するに至らざるをえなかったのであります。 ここに我々の信心、特に折伏においてもまことに大事なことが示されていると思います。 折伏には説得力が必要であります。 説得力が乏しいと、相手はなかなか信じません。 したがって、説得力を見に付けなければなりませんが、説得力と言っても、言葉が巧(たく)みなだけでは、相手は入信しません。 大聖人様は『法蓮抄』に、 「凡夫は此の経は信じがたし。又(また)修行しても何の詮(せん)かあるべき。是(これ)を以(もっ)て之(これ)を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」(御書 八一四頁) と、折伏に当たって最も説得力があるのは、信心の功徳を現証として示すことだとおっしゃっているのです。 つまり「この信心をすれば幸せになれますよ」と言っても、それを示すものがないとだめなのです。 我々の折伏も、まさにこの不軽菩薩の大神通力、楽説弁力、大善寂力を目の当たりにした増上慢の四衆が等しく、その説くところを聞いて信伏随従するに至ったように、信心の確(かく)たる現証を身で示していくことが大切です。 そのためには、やはり、まず自らが自行化他にわたる信心を、しっかりと行っていかなければならないのであります。 自行化他の信心に励むところ、妙法の広大なる功徳によって、必ず私達自身もまた、不軽菩薩と同様に、自然と大神通力、楽説弁力、大善寂力を得ることができるのであります。 (中略) 折伏は結局、我々の言っていることを、相手が信じてくれなければ何もなりません。 相手の信頼に足る言葉、相手の信頼に足る行い、そして意(こころ)がなければ、折伏は成就しないのであります。 大御本尊への絶対信をもって自行化他の信心に励む時、まさに妙法の広大なる功徳によって、自らが変わり、相手が変わり、折伏成就に至るということを、よくよく知らなければなりません。 一人ひとりがこのことをしっかりと認識せられて、お題目を唱え、自らが勇気を持って折伏に出るようにしていただきたいと思います。 (大白法・令和元年7月1日号より抜粋) (令和元年10月掲載) |