(中略) 最初に「かくのごとく存じて父母・師匠等に随(したが)はずして仏法をうかゞいし程に、一代聖教(しょうぎょう)をさとるべき明鏡十あり。所謂(いわゆる)倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律宗・法相(ほっそう)・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり」と仰せであります。 これは、前の部分におきまして仏道における真の孝養について示されたことを受け、諸宗の迷乱を挙げられている段であります。 すなわち、父母、師匠等に従わないで一代聖教を習おうとするのに、現在の日本には、倶舎・成実・律・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅・天台法華の十宗があると仰せられているのであります。 (中略) そして「此(こ)の十宗を明師として一切経の心をし(知)るべし」、これらの十宗を明師として釈尊の一切経の心、すなわち真髄を知るべきであると仰せであります。 続いて「世間の学者等をも(思)えり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照らせりと」とありますが、世間の学者達は、この十宗の鏡となる教えは、いずれも正しく仏の説かれた道であると思っているということです。 世間の人々は「分け登る 麓(ふもと)の道は 多けれど 同じ高嶺(たかね)の 月を見るかな」との歌にだまされて、各宗それぞれあるけれども所詮、仏教は皆、同じだと思って迷妄し、真実を見極められないでおります。 (中略) 要するに、これらの人師はいずれも自宗に固執して、それぞれが「我が宗こそが第一である」と主張しているのであります。 それ故に、次下(つぎしも)に「彼(か)の人々の云はく、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云はく、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星(しゅしょう)のごとし。禅宗が云はく、一切経の中には楞伽経(りょうがきょう)第一なり。乃至余宗かくのごとし。而(しか)も上(かみ)に挙ぐる諸師は世間の人々各々をも(思)えり。諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随(したが)ふがごとし」と仰せになっているのであります。 つまり、華厳宗の人々は「一切経のなかでは華厳経が第一であって、法華経や大日経などは、その臣下のような者である」と言っているのであります。 しかし、これは全く根拠がない話であります。 法華経が第一であるということは、釈尊五十年の説法の上から、無量義経において明らかに示されたものでありますけれども、華厳の者達は全く根拠のないことを言っておるのであります。 次に真言宗の人達は「一切経のなかでは大日経が第一であって、他の経々は、まるで日月に対する星のようなものである」と言っているのであります。 これは世間知らずというか、仏法を学ぶに平等性がなく、学問未熟の故の結果であり、大日経が第一であると彼らが言う理論的な根拠、実体は全くないのであります。 次に禅宗の人は「一切経のなかで楞伽経が第一である」と言っており、そのほかの宗の人達も、それぞれが自宗の持つ経が第一だと誇っているのであります。 しかも、こうした諸師を世間の人々が尊敬していることは、まるで諸天がその王の帝釈を敬い、多くの星がその中心たる日月に従うかのようであると仰せられているのであります。 世間の人達が、このような真言や禅といった各宗の者達に誑(たぶら)かされている現状があるのです。 そこで大聖人様は、これら諸宗について、それぞれが仏法を正しく見ることができずに、各々自説を主張していることを、かくの如くおっしゃっているのであります。 今、世間を見ると、まさに末法濁悪(じょくあく)の世相そのままに、邪義邪宗の謗法が跋扈(ばっこ)し、その害毒によって多くの人が不幸に喘(あえ)いでいます。 こういった悲惨な現状を見て、私どもは何をすべきか、ここが一番大事でありまして、私が言うまでもなく、私どもは、まず立正安国の原理に従って、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を対治しなければ、本当の幸せを得ることができないことを覚知し、勇猛果敢に折伏を行じていかなければならないのであります。 (中略) 今こそ、私達は折伏をしていかなければなりません。 私の師匠の観妙院は、よく「信心とは折伏なり」と言っていました。 日蓮正宗の信心、大聖人様の信心は折伏であり、独(ひと)りよがりの信心は爾前経と同じです。 そもそも、人を救うことを知らない宗教など存在してはおかしいのです。 人を救うところに、つまり折伏するところに、我々の信心の大きな意義があるのであります。 (大白法・令和2年6月1日号より抜粋) (令和3年7月掲載) |