(中略) 初めに「我が浄土は毀れざるに 而(しか)も衆(しゅ)は焼け尽きて 憂怖(うふ)諸(もろもろ)の苦悩 是(かく)の如く悉(ことごと)く充満せりと見る 是(こ)の諸の罪の衆生は 悪業(あくごう)の因縁を以(もっ)て 阿僧祇劫(あそうぎこう)を過ぐれども 三宝の名(みな)を聞かず」と仰せでありますが、これは仏を見ざる因縁を明かす段の御文であります。 まず「我が浄土は毀れざるに」と仰せでありますが、先に仏の常住不滅の国土を説かれたのを受けて、仏の霊山(りょうぜん)浄土は永遠に毀れ滅することがないと仰せられているのであります。 (中略) されば釈尊は如来寿量品において、 「是(これ)より来(このかた)、我(われ)常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」 (法華経 四三一頁) と説いて、娑婆世界が仏の住する常寂光土であると明かされているのであります。 すなわち、法華経以前の経々では、娑婆世界は六道の迷いの凡夫の世界で、厭(いと)うべき穢土(えど)、つまり、汚(けが)れた国土、三界六道の苦しみのある世界であるとされ、この世界のほかに別に浄土があると説かれてきましたが、法華経如来寿量品に来たって、仏はこの娑婆世界に常住すると、娑婆即浄土であることを明かされたのであります。 しかるに「而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如く悉く充満せりと見る」と仰せのように、世の中の多くの人々は悪業の因縁によって、このことを知らず、ために苦しみが充満し、苦悩に喘(あえ)いでいるのであります。 (中略) 「是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず」と仰せられ、この娑婆世界を瓦礫無常の国土と見てしまう罪悪の衆生は、悪業の因縁、すなわち身口意の三業にわたる悪行によって、無数劫を過ぎようとも仏法僧の三宝の御名(みな)を聞くことなく、まして常住の仏身を見ることも聞くこともできないと仰せられているのであります。 次に「諸の有(あ)らゆる功徳を修(しゅ)し 柔和質直(にゅうわしちじき)なる者は 則(すなわ)ち我が身 此(ここ)に在って法を説くと見る 或(ある)時は此(こ)の衆の為に 仏寿無量なりと説く 久しくあって乃(いま)し仏を見たてまつる者には 為に仏には値(あ)い難しと説く 我が智力是の如し 慧光照すこと無量に 寿命無数(むしゅ)劫なり 久しく業(ごう)を修して得る所なり」と仰せでありますが、この御文は仏身・仏土の常住を見ることができる因縁を明かされており、前の御文が見ざる因縁について説かれたのに対して、見る因縁について説かれているのであります。 初めに「諸の有らゆる功徳を修し」とありますが、あらゆる功徳を修すとは、爾前教においては、過去において五百乃至無量の仏に仕えて幾多の善根を積む、いわゆる積功累徳(しゃっくるいとく)でありますが、法華経においては、仏の正法を信ずることが功徳を積むことになるのであります。 すなわち、功徳とは功能(くのう)福徳の意にして、「功」は福利を招く功能、この功能が善行に徳として備わっていることを功徳と言うのであります。 「徳」は得の意で、功を修めることによって得るところを功徳と言い、法華経法師功徳品には、法華経を受持・読・誦・解説(げせつ)・書写する功徳として、六根清浄(しょうじょう)の果報を得ると説かれています。 されば『御義口伝』には、 「法師とは五種の法師なり、功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり」(御書 一七七五頁) と説かれているのであります。 (中略) されば私ども一同、この御文を拝す時、なお一層の精進をもって自行化他の信心に励み、いよいよ明年に迫った宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の達成へ向けて講中一結・異体同心し、全力を傾注して一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくことが、今、最も肝要であろうと思います。 大聖人は『聖愚問答抄』に、 「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権(ごん)教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫(くふう)・修練も無用なり。只(ただ)折伏を行じて力あらば威勢を以(もっ)て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書 四〇三頁) と仰せであります。 この御文を拝し、今、末法において、特に今日、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大慶事をいよいよ明年にお迎えする私どもの信心にとって、大御本尊様にお誓い申し上げた法華講員八十万人体勢構築の誓願は、全支部が持てるすべての力を傾注して、何としても達成しなければなりません。 そのためには、私ども一人ひとりが末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の御教示のままに、身軽(しんきょう)法重・死身弘法(ぐほう)の御聖訓を体し、講中一結・異体同心して、いかなる困難・障魔が惹起(じゃっき)しようとも、勇猛果敢に誓願達成へ向けて折伏を行じていくことが肝要であります。 特に今日、コロナウイルス感染症によって国内外共に混迷を極め、騒然としておりますが、かかる時にこそ、私どもは『立正安国論』の御聖意を拝し、決然として立ち上がり、妙法広布に尽くしていかなければならないと思います。 (大白法・令和2年12月1日号より抜粋) (令和3年2月掲載) |