『聖愚問答抄』を拝しますと、 「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性(しょう)は月の波に動くに似たり。故に汝(なんじ)当座は信ずといふとも後日は必ず翻(ひるが)へさん。魔来たり鬼(き)たるとも騒乱(そうらん)する事なかれ」(御書 四〇九頁) と仰せであります。 すなわち、たとえ不退転の決意をもってことに当たるも、「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり」と厳しく御指摘されているように、移りやすきは人の心であります。 何事もない平穏な時には悠然(ゆうぜん)としていても、いざ現実に難が競い起こり、障魔が蠢動(しゅんどう)すれば、驚き慌(あわ)てるのが人の常であります。 しかし、大聖人は「魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ」と仰せられて、むしろ魔が競い起きた時こそ、信心決定(けつじょう)の絶好のチャンスと捉え、臆(おく)することなく泰然(たいぜん)として対処するよう注意を喚起あそばされているのであります。 されば『椎地四郎殿御書』には、 「大難来たりなば強盛の信心弥々(いよいよ)悦(よろこ)びをなすべし。火に薪(たきぎ)をくわ(加)へんにさか(盛)んなる事なかるべしや。大海に衆流(しゅる)入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河(しょが)の水は大難の如く入れども、かへす事とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ」(同 一五五五頁) と仰せられ、たとえいかなる大難が競い起きようが、はたまた障魔が蠢動しようが、かくなる時こそ、一生成仏への絶好のチャンスと捉え、なお一層、強盛な信心に励んでいくところ、必ず解決の道が開かれてくると御指南されているのであります。 されば、私どもはこの御金言を拝し、改めて妙法信受の広大無辺なる功徳を拝信し、講中一結・異体同心の団結をもって破邪顕正の折伏を行じ、もって誓願達成に向けて勇躍前進していくことが、今、最も大事であると知るべきであります。 (大白法・令和4年8月16日号より抜粋) (令和4年11月掲載) |