大聖人様は『開目抄』に、 「つたな(拙)き者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし」(御書 五七四頁) と仰せであります。 この御文を拝する時、私どもは改めて年頭に御宝前に誓った折伏誓願は、講中の総力を結集して達成しなければならない大事な目標であることを確認し、時を惜(お)しまず、誓願達成へ向けて折伏を行じ、「つたなき者」との汚名(おめい)はなんとしても避けなければなりません。 大聖人様は『唱法華題目抄』に、 「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕(だ)せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強(し)ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁と成すべきか。然(しか)れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節なる事諍(あらそ)ひ無き者をや」(同 二三一頁) と仰せであります。 この御文中の「毒鼓の縁」とは、既に皆様方には御承知の通り、毒を塗った太鼓を大衆のなかで打つと、聞こうとする心がなくとも、その音を聞いた者すべてが死ぬと言われております。 これは、法を聞こうとせず反対しても、やがて煩悩を断じて得道できることを毒鼓、毒を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。 つまり、耳根(にこん)得道という言葉がありますように、一切衆生には皆、仏性が具(そな)わっております。 たとえ聞こうとする心がなくても、正しい法を耳にしたことが縁となって成仏できるわけでありますから、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、救済できるのであります。 (大白法・令和4年12月16日号より抜粋) (令和5年4月掲載) |