大聖人様は『開目抄』に、 「夫(それ)、摂受(しょうじゅ)・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。邪知・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失ふ。末法に摂受・折伏あるべし。所謂(いわゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし」(御書 五七五頁) と仰せであります。 まさしく今、末法は「邪智・謗法の者多き時」にして、この時は摂受ではなく、折伏をもってすることが肝要であるとの御教示であります。 この御指南を改めて拝し、講中一同、決意も新たに異体同心して一意専心、折伏を行じていくことが肝要であります。 (大白法・令和5年1月16日号より抜粋) (令和5年5月掲載) |