日蓮正宗 昭倫寺

十二月度 広布唱題会の砌

 令和元年12月1日 於 総本山客殿

「朝(ちょう)につか(仕)ふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をし(知)りながら奏(そう)しもせず、私にもあだ(怨)まずば、奉公皆う(失)せて還(かえ)ってとが(咎)に行なはれんが如し」(御書 三二三頁)
と仰せられ、朝廷に仕える人が、十年、二十年と長年にわたって奉公に励んでも、主君の敵を知りながら上(かみ)に報告もせず、己(おの)れ自身もその敵を責めなければ、長年にわたる奉公の功績も皆、消えてしまい、かえって罪に問われるようなものであると仰せられているのであります。

したがって、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の弟子檀那であれば、謗法の害毒によって苦しんでいる人達を見て、折伏もせず、謗法を責めようともしなければ、大聖人様の御本意に違うことになり、正しい信心の実践とはならないのであります。
大聖人様の教えのままに、正しい信心の道に連なってこそ、一生成仏も初めてかなうのであります。

大聖人様は『唱法華題目抄』に、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕(だ)せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強(し)ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節なる事諍(あらそ)ひ無き者をや」
(同 二三一頁)
と仰せであります。

「毒鼓の縁」については、再三申し上げていることでありますが、毒薬を太鼓に塗り、大衆の中においてこれを打てば、聞こうとする心はなくても、これを聞けば皆、死んでしまうように、法を聞こうとせず信じようとしなくとも、やがて煩悩を断じて得道できることを、毒を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。

すなわち、一切衆生には皆、本来的に仏性が具(そな)わっております。
正しい教えを聞き、その縁に触れ、発心・修業することによって、仏性が仏性としての用(はたら)きを示し、成仏することができるのでありますから、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であったとしても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来、必ず救済することができるのであります。

されば、私どもは一人ひとりがこの御金言を拝し、大聖人御聖誕八百年をいよいよ明後年に迎えた今、いかに折伏が大事であるかを銘記され、講中の一人ひとりが、断固たる決意をもって大折伏戦を展開し、もって全支部が必ず折伏誓願を達成され、晴れて御聖誕八百年の大慶事を迎えられますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。

(大白法・令和元年12月16日号より抜粋)

(令和2年1月掲載)