大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、 「信心ふかき者も法華経のかたき(敵)をばせ(責)めず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたき(敵)をだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝(ちょう)につか(仕)ふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をし(知)りながら奏(そう)しもせず、私にもあだ(怨)まずば、奉公皆う(失)せて還(かえ)ってとが(咎)に行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者とし(知)ろしめすべし」(御書 三二二頁) と仰せであります。 すなわち、自分では法華経を深く信じていると思っていたとしても、法華経の敵(かたき)を折伏しなければ、どのような大善根、すなわち善い報いを生ずる因となる善行を修し、法華経を千万部書写し、一念三千の観心に達した人でも成仏することはできないと仰せられ、それはあたかも朝廷に十年、二十年と長い間、奉公しても、主君に敵する者を知りながら主君にも告げず、自分もその敵を責めずに過ごしたとしたら、長年の奉公は全く無意味になるばかりでなく、かえって怠慢(たいまん)の者として罰せられるが如くであると仰せられているのであります。 この御文を拝する時、折伏を忘れた信心は、大聖人の御意(ぎょい)にかなう正しい信心ではないことを、私達はよく知らなければなりません。 私どもは大聖人の御意にかなう正しい信心を行じてこそ、広大無辺なる功徳を享受し、一生成仏を果たすことができるのであります。 (大白法・平成30年5月16日号より抜粋) (平成30年8月掲載) |