十四誹謗のなかには懈怠(けたい)謗法があります。 十四誹謗というのは正法を信ずる者が戒めなければならない十四種の謗法のことでありますが、そのなかに懈怠、すなわち仏道修行を怠けることは謗法に当たると仰せになられているのであります。 たいへん厳しい話ではありますが、それほど懈怠、すなわち怠けるということは謗法に当たり、私達が最も気をつけなければならないことなのであります。 大聖人様は『上野殿御返事』に、 「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或いは火のごとく信ずる人もあり。或いは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信じさせ給へるか。たうとしたうとし」(御書一二〇六頁) と仰せられています。 火のごとき信心とは、大聖人の仏法を聞いて一時的には感激して、火の燃え立つように勢いよく信心に励みますが、やがて時が過ぎると、いつの間にか、やめてしまう信心のことであります。 その反対に、水の如き信心とは、「いつもたいせず」と仰せのように、常に流れて少しも留まることなく滔々と流れて、休むことなく続く信心のことであります。 火の如き信心と水の如き信心とでは、このように大きな差があるのであります。 もちろん、私どもの信心は、一時的に燃えて消えてしまう火の如き信心ではなく、休むことなく滔々と流れる水の如き信心でなければなりません。 (大白法より抜粋) (平成28年3月掲載) |