不軽菩薩は、悪口罵詈されながらも、瞋恚の心を生ぜず、多年にわたって常に、 「汝当に作仏すべし」(法華経 五〇一頁) と言って、礼拝行をやめなかったのであります。 そのために増上慢の四衆は、この不軽菩薩に対しまして杖木瓦石(じょうもくがしゃく)をもって打擲(ちょうちゃく)し、迫害を加えたのであります。 しかし不軽菩薩は、それを避けて遠くに行き、それでもなお声高(こわだか)に、 「我敢えて汝等を軽しめず。汝達皆(みな)作仏すべし」(同頁) と言って、礼拝行を続けたのであります。 ひたすら礼拝行を続けた不軽菩薩は、その功徳によって、命(いのち)終わらんとする時に至って、威音王仏の説かれた法華経を虚空(こくう)のうちに聞き、ことごとく受持して六根清浄を得て、六根清浄を得終わってさらに寿命を延ばすこと、二百万億那由多(なゆた)歳、その間、広く人々のために法華経を説いたのであります。 その結果、かつて不軽菩薩を軽蔑し、悪口罵詈・杖木瓦石をもって迫害した増上慢の四衆、すなわち不軽菩薩を軽しめて「常不軽」と名づけた者達も、但行(たんぎょう)礼拝の功徳によって、不軽菩薩が大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たるを見て、また、その説くところを聞いて皆、信伏随従するに至ったのであります。 この中の大神通力というのは、身に神通力を示現(じげん)することであります。 次の楽説弁力というのは、自在無礙(むげ)に弁舌をする力であります。 そして大善寂力というのは、心に禅定(ぜんじょう)を得る力で、禅定というのは、心を静めて真理を観察し、心身共に動揺することなく安定した状態を言うのでありまして、この大善寂力を得たということであります。 (中略) 「魔競(きそ)はずば正法と知るべからず」(御書 九八六頁) で、正しい方を弘めていこうとすれば、必ず魔が蠢動(しゅんどう)するのです。 したがって、人が用いなくとも、強いて妙法蓮華経を説き聞かせることが大事であると仰せられているのであります。 大聖人様は『一念三千法門』に、 「此の娑婆世界は耳根得道(にこんとくどう)の国なり」(同 一一〇頁) と仰せです。 「耳根得道」というのは、まさに仏法を聞くことによって衆生が成仏得道するということで、例えば、私どもが折伏すると、素直に聞く人もいますけれども、たいてい反対する人が多いでしょう。 しかし、その時は反対しても、私どもの話が耳朶(じだ)に残り、それが縁となって入信に至ることがあります。 したがって、折伏は「強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり」との御金言を胸に、確信を持ってすることが大事なのであります。 されば、大聖人様は『御義口伝』に、 「所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(同 一七七八頁) と仰せであります。 すなわち、私たちが不軽菩薩と同様に、飽(あ)くなく折伏に励む時、大神通力・楽説弁力・大善寂力の三力を得て、おのずと我らの身口意の三業にわたる所行のすべてが折伏に役立つ、強烈な説得力を持つことになるのであります。 たとえば、折伏の言葉一つ取っても、自然と楽説弁力等の功徳が発揮され、相手の信頼感を得ることができるのであります。 折伏は、我々の言っていることを、相手が信じてくれなければ何もなりません。 相手の信頼に足(た)る言葉、行い、意(こころ)がなければ、折伏は成就しないのであります。 大御本尊様への絶対信をもって自行化他の信心に励む時、妙法の広大なる功徳によって、まず自らが変わり、相手が変わり、折伏成就に至るのであります。 (大白法・平成29年5月1日号より抜粋) (平成29年7月掲載) |