「嗟呼(ああ)悲しいかな如来誠諦(じょうたい)の禁言(きんげん)に背くこと。哀(あわ)れなるかな愚侶(ぐりょ)迷惑の麁語(そご)に随ふこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断つべし」と仰せであります。 「誠諦」というのは真実で誤りがなく、永遠に変わらない事実・真理のことです。 また「禁言」というのは仏の誡めの言葉、如来が説く真実にして不変の言葉、仏の真実の教えのことであります。 すなわち、法然の『選択集』が教主釈尊の真実の言葉に背いていることは、まことに悲しいことであるとの仰せであります。 そして「哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと」とは、『選択集』の如き悪書を弘める法然の邪説に惑わされていることは、まことに哀れなことであるとの意であります。 そこで「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」と仰せられているのであり、これが第七問答の結論でもあります。 この御文を拝するとき、謗法がいかに世の中に害を及ぼしているかを知り、その謗法の対治なくして真の幸せは到来しない、つまり折伏をしなければならないことを、よくよく知るべきであります。 「破邪顕正」という言葉があります。 邪を破折するところに正を立てることができるのでありまして、正を立てるだけではだめなのです。 今日(こんにち)、あらゆる間違った宗教がはびこっていますが、その間違った宗教を、私達が破折しなければ意味がないのです。 これが、法華講頭員たる者の大事な務めであります。 そもそも、この謗法の恐ろしさについて『曽谷殿御返事』に 「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にを(堕)つべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入(どっけじんにゅう)、失本心故(しっぽんしんこ)』とは是なり」(同一〇四〇頁) と示され、謗法を容認したままの信心では地獄に堕ちてしまうと、大聖人様は明らかに仰せになっています。 「謗法あらば必ず地獄にをつべし」との御文を、よくよく私達は気にしていかなければなりません。 また『顕謗法抄』には 「五逆罪より外(ほか)の罪によりて無間(むけん)地獄に堕ちんことあるべしや。答へて云はく、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の重罪なり。問うて云はく、証文如何(いかん)。答へて云はく、法華経第二に云はく『若(も)し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば乃至(ないし)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん』等云云。此の文に謗法は阿鼻地獄の業(ごう)と見へたり」(同 二七九頁) と、厳しく謗法を破折しておられます。 だから私達の信心には、謗法がかけら一つあってもだめなのです。 まさに「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」であります。 謗法、恐るべしで、この謗法を破折するところに、我々の折伏の本意があるのです。 このことを忘れて「こっちの水は甘いぞ」というような折伏をしていたとしたら、それは間違いです。 あくまでも謗法を破折しなければならない、これが「破邪顕正」という意味であります。 (大白法・平成30年5月1日号より抜粋) (平成30年9月掲載) |