日蓮正宗 昭倫寺

日如上人御言葉 御霊宝虫払大法会の砌


御霊宝虫払大法会の砌

平成27年4月6日 於 総本山御影堂

釈尊ならびに不軽菩薩がそうであったように、法を弘めるに当たっては、様々な難に値うことは必定であります。
否、むしろ難が現われてくることは、その法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きもしませんし、騒ぎもしません。
また、襲ってもきません。
私どもの信心が正しいからこそ、様々な難が襲ってくるのであります。
故に『兄弟抄』には、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に伝はく『行解既に勤めぬれば三障四魔憤然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、是を畏れば正法を修することを防ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(御書九八六頁)
と仰せられているのであります。

私どもは「魔競はずば正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる大難が競い起きようが決然として魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を成就することができるのであります。
「されば仏法中怨の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ目を瞋す」と仰せであります。
されば「仏法中怨」すなわち、仏法のなかの怨であるとの責めを逃れようと思うならば、多くの人に憎まれても、命を仏様と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与えて、謗法の者を責めなければならないのであります。
もちろん、一向に謗法を責めれば、この道理が解らない者達が正法のものを罵ったり、目を怒らして怨をなすのは元より覚悟の上と決意して、妙法広布に生きることこそ今生の誉れであります。まさに「魔競はずば正法と知るべからず」であります。

我々の折伏は、あくまでも邪義邪宗の害毒によって苦しんでいる人々を救済する事が本義であり、したがって折伏においては、時に、こちらの真意が解らず、誤解されたり非難されることは多々ありますが、命を御本尊様に預け、慈悲をもって根気よく破邪顕正の折伏を続けていくことが極めて大事であることを銘記し、一層の折伏行に精進することが肝要であります。

(大白法より抜粋)


(平成28年4月掲載)