(立正安国論 御書二五〇頁七行目) 客の曰く、今生(こんじょう)後生(ごしょう)誰(たれ)か慎(つつし)まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を被きて具(つぶさ)に仏語を承(うけたまわ)るに、誹謗の科(とが)至って重く毀謗(きぼう)の罪誠(まこと)に深し。我(われ)一仏を信じて諸仏を抛(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは是(これ)私曲(しきょく)の思ひに非(あら)ず、則ち先達(せんだつ)の詞(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。 (通解) 客のいわく。 今生後生にわたる大苦悩を想うとき、誰人が慎まずにおられよう、仏法に従わずにおられよう。 ここで主人より、経文を開きつぶさに仏語を承ってみると、正法を誹謗してきた科がいたって重く、正法を毀った罪がまことに深いことを知った。 これまで自分が、弥陀一仏を信じて諸仏を抛ち、浄土三部経を仰いで諸経を閣いてきたのは、自分なりの勝手な考えでしたことではなく、ひとえに先達の言葉に従ったものである。 すべての諸人もまた自分と同様であろう。 |