(立正安国論 御書二四三頁十一行目) 主人の曰く、予(よ)少量たりと雖も忝(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蠅(そうよう)驥尾(きび)に附(ふ)して万里を渡り、碧蘿(へきら)松頭(しょうとう)に懸(か)かりて千尋(せんじん)を延(の)ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事(つか)ふ。何ぞ仏法の衰微(すいび)を見て心情の哀惜(あいせき)を起こさゞらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘ありて法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遺(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遺し呵責し挙処せば是(これ)我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)」の責を遁(のが)れんが為に唯大綱(たいこう)を撮(と)って粗(ほぼ)一端を示す。其の上(うえ)去ぬる元仁(げんにん)年中に、延暦(えんりゃく)・興福(こうふく)の両寺より度々奏聞(そうもん)を経(へ)、勅宣御教書(ちょくせんみぎょうしょ)を申し下して、法然の選択の印板(いんばん)を大講堂に取り上げ、三世の仏恩(ぶっとん)を報ぜんが為に之を焼失せしめ、法然の墓所(むしょ)に於ては感神院(かんじんいん)の犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて破却(はきゃく)せしむ。其の門弟隆観(りゅうかん)・聖光(しょうこう)・成覚(じょうかく)・薩生(さっしょう)等は遠国(おんごく)に配流せられ、其の後未(いま)だ御勘気を許されず。豈(あに)未だ勘状(かんじょう)を進(まい)らせずと云はんや。 (通解) 主人は言った。 自分は器の小さな人間であるけれども、かたじけなくも大乗仏法を学ぶ身である。 例えば、青蝿は駿馬の尾に付くことによって万里を渡り、蔦葛は大きな松にからんで千尋も伸びるという。 それと同様に、いかに器量は小さくとも、仏の弟子と生まれて、諸経の王たる法華経に使える以上は、どうして仏法の衰微するのを見て哀惜の心情を起こさないでいられようか。 その上、涅槃経には次のように説かれている。 「もし、善比丘が、仏法を壊る者をみても、それをそのまま放置して、咎めもせず、追放もせず、徹底して破折しないでいるならば、まさに、この人は仏法の中の怨敵と知るべきである。 もし、よく追放し、咎め、破折するならば、これこそ我が弟子であり、真の声聞である。」と。 自分は、善比丘の身ではないけれども、「仏法中怨」の責めを逃れるために、大筋だけを取り上げて、ほぼ一端を示すのである。 その上、去る元仁年中には、延暦寺・興福寺の両寺から、たびたび念仏者追放についての上奏がなされ、その結果、勅宣及び御教書が申し下されて、法然の選択集の版木を、比叡山の大講堂に取り上げて、三世の仏恩に報ずるために焼き捨てさせた。 また、法然の墓所は、感神院の犬神人に仰せつけて破却させてしまった。 さらに、法然の門弟である隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に流罪となり、その後、未だに、その御勘気を許されていない。 しかるを、何故、誰一人として、法然の謗法についての勧状を提出した者がいない、などというのか。 |