日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(r2.7)


(立正安国論 御書二四七頁八行目)

然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相(いんそう)に結び、或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土教主の鵞王(がおう)を居(す)へ、或は四百余回の如法経を止(とど)めて西方浄土の三部経と成し、或は天台大師の講を停(とど)めて善導の講と為す。此くの如きの群類其(そ)れ誠に尽くし難し。是(これ)破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。此の邪義は則ち選択に依るなり。嗟呼(ああ)悲しいかな如来誠諦(じょうたい)の禁言(きんげん)に背くこと。哀れなるかな愚侶(ぐりょ)迷惑の麁語(そご)に随ふこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断(た)つべし。


(通解)

このような状況であるから、或いは釈尊像の手の指を切って阿弥陀の印相に結び変え、或いは東方薬師如来を祀った寺を改め西方阿弥陀如来の像を据え、或いは天台宗で四百余年も続いた法華経の書写を浄土三部経の書写に改め、或いは天台大師講を停止して善導講とする等のことまで行った。
このような徒輩が、真に数え切れぬほどいるのである。
これ、破仏、破法、破僧でなくて、いったい何であろうか。
これらの邪義は、全て選択集から起きたのである。
嗚呼悲しいことかな、国中の人々が、如来の真実の禁言に背いていることは。
哀れなことかな、愚侶(法然)の迷いの言葉に従っていることは。
一日も早く世の中を平穏にしたいと思うならば、なんとしても国中の謗法を断絶すべきである。