日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(h31.4)


(立正安国論 御書二四二頁四行目)

 主人咲(え)み止(とど)めて曰く、辛(から)きを蓼葉(りょうよう)に習ひ臭きを溷厠(こんし)に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者(ぼうしゃ)を指して聖人(しょうにん)と謂ひ、正師を疑って悪侶(あくりょ)に擬(ぎ)す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅(あさ)からず。事(こと)の起こりを聞かんとならば、委(くわ)しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内(うち)、一代五時の間先後を立てゝ権実を弁(べん)ず。而るに曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)(すで)に権に就(つ)いて実を忘れ、先(せん)に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底(えんでい)を探(さぐ)らざる者なり。就中(なかんずく)法然其の流れを酌(く)むと雖も其の源(みなもと)を知らず。所以(ゆえん)は何(いかん)。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の字を置いて一切衆生の心を薄(おか)す。是偏(ひとえ)に私曲(しきょく)の詞(ことば)を展(の)べて全く仏経の説を見ず。妄語(もうご)の至り、悪口(あっく)の科(とが)、言ひても比(たぐい)(な)く、責(せ)めても余(あまり)り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択(せんちゃく)を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛(なげう)ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是(これ)諸仏諸経の怨敵(おんてき)、聖僧衆人(しゅじん)の讎敵(しゅうてき)なり。此の邪教広く八荒に弘まり周(あまね)く十方に遍(へん)す。


(通解)
 主人は笑みをたたえ、客を引き止めて言った。
辛い蓼の葉ばかり食べている虫は、その辛さが分からなくなり、また、臭い便所に長くいると、その臭いを次第に感じられなくなっていく。
それと同じように永年、邪法の信仰の中で生きてきたあなたは、真の善言を聞いても悪言と思い、仏陀の真意に背く謗法者を指して聖人といい、仏説を説く正師を疑って悪侶のように思っている 。
その迷いは誠に深く、その罪は浅くない。
事の起こりを聞くつもりがあるなら ば 、くわしく趣旨を話してあげましょう。
釈尊の説法は、一代五時の中に先判と後判を立て分け、権実の区別を明らかにしている。
然るに、 浄土宗の祖師たる曇鸞・道綽・善導は、権教に執して実教を忘れ、先判の四十余年の内に説かれた経に依って、後判の法華経を捨ててしまった。
これは、未だ仏教の奥底を知らない者の所作である。
また、特に法然は、これら三師の流れを受け継いでいながら、その源である三師がすでに権実に迷っていることを知らないのである。
その理由は何かといえば、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびに一切の諸仏・菩薩および諸々の世天に対して、「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」といって、一切衆生の心をたぼらかした。
これは、ひとえに仏説を歪曲した法然の我見の言葉ではあって、まったく釈尊の経文を無視した説である。
実に妄語のいたりで、その悪口の罪科は、他に類例を見ないほど重く、どれだけ責めても責めたりないほどである。
しかも、世間の人々は、その妄語を信じて、法然の選択集を貴んでいる。
故に、浄土の三部経を崇めて諸経を抛ち、阿弥陀の一仏を仰いで諸仏を忘れている。
まことにこれは、諸仏・諸経の怨敵であり、聖僧および大衆の仇敵である。
この邪教が広く国中に弘まり、あまねく十方に遍満してしまったのである。