(善無畏三蔵抄 御書四四〇頁八行目) 三悪並びに無間大城に堕ちて、其の苦をつぐ(償)のひて人中天上には生まれたれども、其の罪の余残ありてやゝもすれば正法を謗じ、智者を罵(の)る罪つくりやすし。例せば身子(しんし)は阿羅漢(あらかん)なれども瞋恚(しんに)のけしきあり。畢陵(ひつりょう)は見思(けんじ)を断ぜしかども慢心の形みゆ。難陀(なんだ)は淫欲(いんよく)を断じても女人に交はる心あり。煩悩を断じたれども余残あり。何に況んや凡夫にをいてをや。 (通解) 地獄・餓鬼・畜生の三悪道や無間大城に堕ちて罪を償い終えて人間界や天上界に生まれたけれども、その罪の余残があってややもすれば正法を誹謗したり、智者を罵ったりして再び罪を作りやすい。 例えば舎利弗は阿羅漢であるが瞋恚の様子があり、畢陵伽婆羅は見思惑を断じたとはいえ慢心の姿が見え、難陀は淫欲を断じてもまだ女人に交わる心があった。 これら声聞の仏弟子は煩悩を断じても余残がある。 まして凡夫においてはなおさらである。 |