(兄弟抄 御書九八六頁八行目) 此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。 第五の巻に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。 此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。 (通解) この法門を申すならば必ず魔が現われる。 魔が競い起こらなければ、それが正法であるとは言えない。 摩訶止観の第五の巻には「行解がまぎれもなく深まっていけば三障四魔が紛然として競い起こる。乃至 けれども三障四魔に随ってはならないし、また畏れて尻込みしてもいけない。これに随うならばまさに人を悪道に向かわせ、これを畏れるならば正法を修行することを妨げる」等と説かれている。 この釈は日蓮の身に当てはまるだけでなく、広く門家の明鏡である。謹んで習い伝えて未来の糧としなさい。 |