(立正安国論 御書二四五頁十八行目) 又云はく「善男子、過去の世に此の拘尸那城(くしなじょう)に於て仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益(かんきぞうやく)如来と号(ごう)したてまつる。仏(ほとけ)涅槃(ねはん)の後(のち)、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の末(すえ)、爾(そ)の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳(かくとく)と曰ふ。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞き皆(みな)悪心を生じ、刀杖(とうじょう)を執持して是の法師を逼(せ)む。是の時の国王の名を有徳(うとく)と曰ふ。是の事を聞き已(お)はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至(おうし)して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者厄害(やくがい)を免(まぬか)るゝことを得たり。王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡(きず)を被(こうむ)り、体(からだ)に完(まった)き処は芥子(けし)の如き許(ばか)りも無し。 (通解) また(涅槃経に)いわく。 「弟子達よ、過去の世に、この拘尸那城において、仏が世に出現せられたことがあった。 名を歓喜増益如来と申し上げる。 この仏が入滅された後、仏の説いた正法は、無量億年という長期にわたって世に続いた。 あと、残り四十年で仏法が滅する、という最後の時代に、一人の正法を持つ僧侶があった。 名を覚徳という。 同じ時代に、多数の謗法の僧侶があった。 彼等は、この覚徳比丘が僧侶の蓄財を戒め、怠りなき仏法弘宣を勧めるのを聞いて、皆、悪心を起こし、刀杖を持って覚徳比丘を殺害せんと迫った。 この時の国王の名を有徳という。 有徳王は、覚徳比丘の危急を聞くやいなや、護法のために、ただちに覚徳比丘のところへ駆けつけ、この謗法の悪僧達と激しく戦闘した。 その結果、覚徳比丘は厄害から免れることができたが、有徳王は、その戦闘のために、全身に刀剣や鉾槊の傷を蒙り、傷の無いところは、芥子粒ばかりもないほどであった。 |