(立正安国論 御書二四四頁七行目) 主人の曰く、余は是頑愚(がんぐ)にして敢(あ)へて賢(けん)を存せず。唯(ただ)経文に就(つ)いて聊(いささか)所存を述べん。抑(そもそも)治術の旨、内外(ないげ)の間、其の文幾多(いくばく)ぞや。具(つぶさ)に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りて数(しばしば)愚案を廻(めぐ)らすに、謗法の人を禁(いまし)めて正道(しょうどう)の侶(りょ)を重んぜば、国中(こくちゅう)安穏にして天下泰平ならん。 即ち涅槃経に云はく「仏の言(のたま)はく、唯一人を除きて余の一切に施(ほどこ)さば皆讃歎(さんだん)すべし。純陀(じゅんだ)問うて言(い)はく、云何(いか)なるをか名づけて唯除一人(ゆいじょいちにん)と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復(また)言はく、我今未だ解せず、唯(ただ)願はくは之を説きたまへ。仏(ほとけ)純陀に語りて言はく、破戒とは謂(い)はく一闡提(いっせんだい)なり。其の余の在所(あらゆる)一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲(え)ん。純陀復(また)問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何(いかん)。仏の言(のたま)はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)有りて麁悪(そあく)の言(ことば)を発し、正法(しょうぼう)を誹謗せん。是の重業(じゅうごう)を造りて永く改悔(かいげ)せず、心に懺悔(ざんげ)無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道(みち)に趣向(しゅこう)すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自(みずか)ら定めて是くの如き重事(じゅうじ)を犯すと知れども、而(しか)も心に初めより怖畏(ふい)・懺悔無く、肯(あ)へて発露(ほつろ)せず。彼の正法に於て永く護惜建立(ごしゃくこんりゅう)の心無く、毀呰軽賤(きしきょうせん)して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此くの如き一闡提の輩(やから)を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし」と。 (通解) 主人の言うには、自分はもとより頑愚であって、賢いところがあるわけでもない。 ただ、経文について少し所存を述べてみよう。 そもそも、災難を対治する方法については、仏教典及び仏教以外の典籍の中に、幾多の文が説かれているので、すべてを挙げることは難しい。 ただし、仏道に入ってしばしば考えを巡らせてみると、所詮、謗法の人を禁止して、正法を弘める人を重んずるならば、国中が安穏になり、天下は泰平となるのである。 即ち、涅槃経には次のように説かれている。 「仏の言われるには、ただ一人を除く他の一切の人に布施するならば、皆、その布施の行を讃歎するであろう、と。 純陀が質問して言うには、いかなる人のことを指して、ただ一人を除くのですか、と。 仏の言われるには、ここで説くところの『ただ一人』とは、破戒の者のことである、と。 純陀がまた言うには、私には、まだよく分かりません。 どうか、詳しく教えてください、と。 仏が純陀に語って言われるには、破戒の者とは、一闡提人のことである。 一闡提人以外のあらゆる一切の人々に布施すれば、皆が讃歎し、また大果報を得るであろう、と。 純陀がさらに質問申し上げて、一闡提とはいかなることなのでしょうか、と。 仏が言われるには、純陀よ、もし、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の内で、麁悪な言葉を発して正法を誹謗し、しかも、そのような重業を作りながら、長い間、悔い改めることなく、懺悔の心も持たない者があるならば、このような人達を称して、一闡提の道に趣く者とするのである。 あるいは、また、四重罪を犯し、五逆罪を作り、しかも自ら、そのような重罪を犯していることを知りながら、最初から恐れる気持ちや懺悔の心が無く、その罪を隠していく。 正法に対してまったく護り惜しみ建立する心が無く、かえって悪口を言い、軽んじ賤しんで、その言葉には誤りが満ちている。 このような人達を、また一闡提の道に趣く者と称するのである。 ただ、このような一闡提の輩を除いて、それ以外の者に布施するならば、皆、讃歎するであろう。」 と。 |