(立正安国論 御書二三四頁十一行目) 主人の曰く、独(ひと)り此の事を愁(うれ)ひて胸臆(くおく)に憤び(*1)す。客来(き)たりて共に嘆く、屡(しばしば)談話を致さん。夫(それ)出家して道(みち)に入る者は法に依って仏を期(ご)するなり。而るに今(いま)神術も協(かな)はず、仏威も験(しるし)無し。具(つぶさ)に当世の体(てい)を覿(み)るに、愚(おろ)かにして後生(こうせい)の疑ひを発(お)こす。然れば則(すなわ)ち円覆(えんぷ)を仰いで恨(うら)みを呑(の)み、方載(ほうさい)に俯(ふ)して慮(おもんばか)りを深くす。倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。 (通解) 主人が言う、自分は一人このことを愁いて、胸中に思い悩んでいたが、客 (あなた )が来て共に嘆くので、これについて少々語り合おうと思う。 そもそも、出家して仏道に入る者は、正法によって成仏を期するのである。 しかるに、今や神術もかなわず、仏の威徳による験しも顕れない。 つぶさに現在の世の中の有り様をみると、民衆は愚かにして、後輩としての疑いを起こしている。 しかして、天を仰いでは恨みを呑み、地に伏しては深く憂慮に沈んでいる。 わずかばかりの眼を開いて、少し経文を開いてみると、世の民衆は皆正法に背いて、人々は悉く悪法に帰依している。故に善神は国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して帰ってこない。このため、善神・聖人に代わって魔人・鬼神が来て、災いが起こり、難が起こるのである。 このことは、声を大にして言わなければ成らないことであり、恐れなくてはならないことである。 *1 (ふんび) |