(立正安国論 御書二三八頁一〇行目) 法華経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)ひ、我慢(がまん)の心充満せん。或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在り、自ら真(しん)の道(どう)を行(ぎょう)ずと謂(おも)ひて人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて、世に恭敬(くぎょう)せらるゝこと六通の羅漢(らかん)の如くならん。乃至(ないし)常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲(ほっ)するが故に、国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士(こじ)及び余の比丘衆に向かって誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて、是(これ)邪見の人外道の論議を説くと謂(い)はん。濁劫(じょっこう)悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其(そ)の身に入って我を罵詈(めり)し毀辱(きにく)せん。濁世(じょくせ)の悪比丘は仏の方便随宜(ずいぎ)所説の法を知らず、悪口(あっく)して顰蹙(ひんじゅく)し数々(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」已上。 (通解) 法華経には次のように説かれている。 「悪世の中の僧侶は、邪智がたけて心がひねくれており、いまだに仏法の真髄も会得していないのに、全てを悟りきったかのごとく思い、自ら慢ずる心が充満している。 或いは、人里離れた寺院などに、僧衣を著けて閑静な座におり、自ら真の仏道を行じていると思いこんで、俗世で暮らす人々を軽んじ賤しむ者もあろう。 彼等は、自分の身を利し養う目的で、在家の人達のために説法をし、世の人々から尊敬されるさまは、あたかも六神通を得た阿羅漢のごとくになろう。 また、常に大衆を煽動して、正法を持つ者を非難しようと願う故に、国王や大臣・婆羅門・居士および諸々の僧侶達に向かって、正法の行者を誹謗するための悪口を捏造して『これは邪な考えを持った人であり、道理に外れた論議を説いている』と言うであろう。 全てが濁りきった悪世においては、諸々の恐怖すべき難がたくさんある。 悪鬼というべき邪宗邪義の僧侶が、国王・大臣・大衆の心に入り込んで、正法の行者を罵り、謗り、辱めるであろう。 濁世の悪侶達は、仏の説いた教えの中にも、一時の方便として、衆生の素養に応じて説かれた法がある、ということを知らず、方便の教に執着して正法の行者の悪口を言い、顔をしかめて憎み、しばしばその正法の行者を追い出すのであろう。」 以上。 |