日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(r1.6)


(立正安国論 御書二四二頁一八行目)

 又慈覚大師(じかくだいし)の入唐巡礼記(にっとうじゅんれいき)を案ずるに云はく「唐の武宗(ぶそう)皇帝の会昌(かいしょう)元年、勅(ちょく)して章敬寺(しょうきょうじ)の鏡霜法師(きょうそうほっし)をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎(ごと)に三日巡輪(じゅんりん)すること絶えず。同二年回鶻国(かいこつこく)の軍兵(ぐんぴょう)等唐の堺(さかい)を侵す。同三年河北(かほく)の節度使(せつどし)(たちま)ち乱を起こす。其の後大蕃国(だいばんこく)(ま)た命(めい)を拒(こば)み、回鶻国重ねて地を奪(うば)ふ。凡(およ)そ兵乱(ひょうらん)は秦項(しんこう)の代(よ)に同じく、災火邑里(ゆうり)の際(さい)に起こる。何に況んや武宗(ぶそう)(おお)いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱(らん)を撥(おさ)むること能(あた)はずして遂に以て事(こと)有り」已上趣意。
 此を以て之を惟(おも)ふに、法然は後鳥羽院(ごとばいん)の御宇(ぎょう)、建仁(けんにん)年中の者なり。彼の院の御事(おんこと)既に眼前に在(あ)り。然れば則ち大唐に例を残し吾(わ)が朝に証(しょう)を顕はす。汝(なんじ)疑ふこと莫(なか)れ汝怪(あや)しむこと莫れ。唯須(すべから)く凶を捨てゝ善に帰し源を塞(ふさ)ぎ根(ね)を截(き)るべし。


(通解)
また、慈覚大師の入唐求法巡礼行記を見てみると、次のように出ている。

「中国・唐の武宗皇帝は、会昌元年に勅命を発し、章敬寺の鏡霜法師に、諸寺に弥陀念仏の教えを伝えさせた。
そして鏡霜法師は、寺ごとに三日ずつ説法して廻った。
すると翌年の会昌二年、回鶻国の軍兵達が唐の国境を侵略してきた。
さらに会昌三年には、河北の節度使までが反乱を起こした。
その後、唐の属国となっていたチベットが唐の命を拒み、回鶻国も重ねて侵略してきた。
あたかも、兵乱は秦の始皇帝・楚の項羽の時代と同様の激しさで、災火はすべての村落を覆うほどであった。
ましてや、この現証を見て仏法そのものに疑いを起こした武宗は、仏教を大いに破失し、多くの寺塔を破壊するといった暴挙に出たので、兵乱を鎮めることもできず、ついに非業の死を遂げてしまった」以上取意。

この、念仏の流行によって国が滅亡するという因果関係について、我が国の例を見てみると、法然は後鳥羽院の時代、建仁年中の者であるが、後鳥羽院が承久の乱で滅びたことは眼前の事実である。
しかればすなわち、唐にも先例が残り、我が朝にも証拠が顕れているのである。
あなたは疑ってはならないし、怪しんでもならない。
ただ速やかに、法然の立てた念仏という凶を捨てて、妙法蓮華経という善に帰依し、選択集の邪義を破失して、災難の源ふさぎ根を断ち切るべきである。