(立正安国論 御書二三九頁十四行目) 又云はく「善導(ぜんどう)和尚は正(しょう)・雑(ぞう)の二行を立て、雑行(ぞうぎょう)を捨てゝ正行(しょうぎょう)に帰するの文。第一に読誦(どくじゅ)雑行とは、上(かみ)の観経等の往生浄土の経を除いて已外(いげ)、大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝(らいはい)雑行とは、上の弥陀(みだ)を礼拝するを除いて已外(いげ)、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天(せてん)等に於て礼拝し恭敬(くぎょう)するを悉く礼拝雑行と名づく、私に云はく、此の文を見るに須(すべから)く雑を捨てゝ専を修すべし。豈(あに)百即百生の専修(せんしゅ)正行を捨てゝ、堅く千中無一の雑修(ぞうしゅう)雑行を執(しゅう)せんや。行者能(よ)く之を思量(しりょう)せよ」と。 (通解) また云く、 「善導和尚が(往生礼賛)に、『正行・雑行という二行を立て、雑行を捨てて正行に帰すべきである。』と述べた文について。 その中で、第一に挙げている読誦雑行とは、観無量寿経等の往生浄土の経を除いて、それ以外の大乗教・小乗教・顕教・密教の諸経を受持読誦するを、悉く読誦雑行と名づけるのである。 第三に挙げている礼拝雑行とは、阿弥陀仏を礼拝することを除いて、それ以外の一切の諸仏・菩薩等及び諸々の世天等を礼拝し恭敬するを、悉く礼拝雑行と名づけるのである。 これについて、私(法然)なりにいうならば、須く雑行を捨てて専修念仏を修行すべきである。 どうして、百人が百人とも必ず極楽浄土へ往生できる専修正行の念仏を捨てて、千人の中に一人も成仏することのできない雑修雑行に堅く執着すべきであろうか。 仏道修行者は、よく、このことを考えるべきである。」 と。 |