日蓮正宗 昭倫寺

立正安国論(h31.2)


(立正安国論 御書二四一頁三行目)

 而るを法然の選択(せんちゃく)に依って、則ち教主を忘れて西土(さいど)の仏駄(ぶっだ)を貴(たっと)び、付嘱を抛(なげう)ちて東方の如来を閣(さしお)き、唯(ただ)四巻三部の経典を専(もっぱ)らにして空(むな)しく一代五時の妙典を抛(なげう)つ。是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏(くぶつ)の志を止(とど)め、念仏の者に非ざれば早く施僧(せそう)の懐(おも)ひを忘る。故に仏堂は零落(れいらく)して瓦松(がしょう)の煙老(お)い、僧房は荒廃(こうはい)して庭草(ていそう)の露深し。然りと雖も各護惜(ごしゃく)の心を捨てゝ、並びに建立(こんりゅう)の思(おも)ひを廃す。是を以て住持(じゅうじ)の聖僧行きて帰らず、守護の善神去(さ)りて来たること無し。是(これ)(ひとえ)に法然(ほうねん)の選択(せんちゃく)に依るなり。悲しいかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷(まよ)へり。謗(ぼう)を好んで正(しょう)を忘る、善神怒(いか)りを成さゞらんや。円を捨てゝ偏(へん)を好む、悪鬼便(たよ)りを得ざらんや。如(し)かず彼(か)の万祈を修せんよりは此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。

(通解)
しかるを、法然の選択集によって、人々は、娑婆世界の教主である釈尊を忘れ、西方の阿弥陀仏を尊び、仏の附属を抛(なげう)って、天台・伝教の建立した東方の薬師如来を閣(さしお)き、四巻三部からなる浄土の教典をもっぱらに信仰して、釈尊一代の聖教を空しく抛ってしまった。
そして阿弥陀の堂でなければ、仏を供養しようとの志も持たず、念仏の僧でなければ、布施しようとの思いもなくしてしまった。
故に、仏閣は落ちぶれて、屋根の瓦にコケが生えて松のように見えるほどになり、ほとんど住む者もいないために、煙も立ちのぼらなくなった。
また、僧坊も荒廃して、庭に生い茂る草に露が深い。
しかしながら、そのような状態にも拘わらず、人々は、法を護り惜しむ心を捨てて、これを建立しようとの思いもなくしてしまった。
この故に、寺を住持する聖僧は往いて帰らず、守護の善神も去ったまま再び来ることはない。
これは、単に法然の選択集によって起きた災いである。
悲しいことに、数十年の間に百千万の人々が、法然の魔縁にたぼらかされて仏法に迷ってしまった。
謗法の念仏を好んで、正法たる法華経を忘れ去るならば、善神が怒りを成さないわけがあろうか。
円(完璧な教えのこと)である法華経を捨てて、偏(偏った教えのこと)である念仏を好むならば、悪鬼が便りを得ないわけがあろうか。
災難を解決するためには、かの千万の祈りを修するよりも、この一凶である謗法を禁ずることこそ肝要なのである。