(立正安国論 御書二四一頁一〇行目) 客殊(こと)に色を作(な)して曰く、我が本師釈迦文(もん)、浄土の三部経を説きたまひてより以来(このかた)、曇鸞(どんらん)法師は四論の講説を捨てゝ一向に浄土に帰し、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は涅槃の広業(こうごう)を閣(さしお)きて偏に西方の行を弘め、善導(ぜんどう)和尚は雑行を抛ちて専修を立て、慧心僧都(えしんそうず)は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を貴重すること誠に以て然(しか)なり。又往生の人其れ幾ばくぞや。就中(なかんずく)法然聖人は幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉(わた)り、並びに八宗を究(きわ)め具(つぶさ)に大意を得たり。其の外一切の経論七遍反覆(はんぷく)し、章疏(しょうしょ)伝記究め看(み)ざることなく、智は日月に斉(ひと)しく徳は先師に越(こ)えたり。然りと雖も猶出離(しゅつり)の趣に迷ひ涅槃の旨を弁(わきま)へず。故に遍(あまね)く覿(み)、悉く鑑(かんが)み、深く思ひ、遠く慮(おもんばか)り、遂に諸経を抛(なげう)ちて専ら念仏を修す。其の上一夢(いちむ)の霊応(れいおう)を蒙(こうむ)り四裔(しえい)の親疎(しんそ)に弘む。故に或は勢至(せいし)の化身(けしん)と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賎(きせん)頭(こうべ)を低(た)れ、一朝(いっちょう)の 男女(なんにょ)歩(あゆ)み を運ぶ。爾しより来(このかた)春秋推(お)し移り 星霜相(あい)積もれり。而るに忝(かたじけな)くも釈尊の教へを疎(おろそ)かにして、恣(ほしいまま)に弥陀の文を譏(そし)る。何ぞ近年の災を以て聖代(せいだい)の時に課(おお)せ、強(あなが)ちに先師を毀(そし)り、更に聖人を罵(ののし)るや。毛を吹いて疵(きず)を求め、皮を剪(き)りて血を出だす。昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず、惶(おそ)るべく慎(つつし)むべし。罪業(ざいごう)至って重し、科条争(いか)でか遁(のが)れん。対座猶(なお)以て恐れ有り、杖を携(たずさ)へて則ち帰らんと欲す。 (通解) 客は怒って顔色を変えて言うには、我が本師である釈迦牟尼仏が、浄土の三部経を説かれて以来、曇鸞法師は、四論(竜樹菩薩著の『中観論』『十二門論』『大智度論』と、提婆菩薩・天親菩薩共著の『百論』)の講説を捨てて一向に浄土信仰に帰依し、また道綽禅師は涅槃経の広業をさしおいて、ひとえに西方往生の行を弘め、善導和尚は雑行を抛って専修念仏を立て、慧心僧都は諸経の要文を集めて研鑽し、念仏の一行を旨とせられた。 阿弥陀を貴び重んずることは、真に、このように行われてきたのである。 また、これによって往生した者の数はどれほどになるであろうか、数え切れないほどであろう。 中でも法然聖人は、幼少の時から比叡山に上り、十七歳の時には天台・妙楽の著した六十巻の書(天台大師著の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の各十巻と妙楽大師著の『法華玄義釈籖』『法華文句記』『摩訶止観輔行弘決』の各十巻)を読み、さらに八宗(華厳・法相・三論・倶舎・成実・律・天台・真言)の教義を究めて、詳しくその大意を会得された。 その他、一切の経論を七回も反復して読み、教義を敷衍・解釈した章疏や歴史を述べた伝記も、一冊として読み究めなかったものがなく、まさにその智慧は日月に等しく、徳は先師達をもしのぐほどであった。 しかし、それでも尚苦悩から出離する道に迷って悟ることができなかった。 ゆえにさらに広く経論を読み、その内容を悉く考え、深く思い、遠く思慮をめぐらして、ついに諸経を抛って専修念仏の行を立てられたのである。 その上、夢に善導が現れるという霊応を受けて、日本国中に遍く念仏を弘められた。 故に人々は法然を勢至菩薩の化身と称し、或いは善導和尚の再誕かと仰ぐようになり、貴賎を問わず、みな頭を垂れて法然を崇め、全ての男女が熱心にその教えを求めるに至ったのである。 しかるに今日まで長い年月が経過した。 しかるにあなたは、災難の根源は法然にあるといって、勿体なくも、釈尊の説かれた念仏を疎かにして、阿弥陀仏を称えた文を好き勝手に謗っている。 なぜこの近年の災難の源を、昔の法然聖人の時代に求め、強いて念仏の先師を謗り、さらに法然聖人を罵るのか。 まるで毛を吹いて隠れていた傷口を顕わにし、わざわざ皮を切って血を出すようなもので、自分の罪を自ら露見しているようなものだ。 昔から今に至るまでこのような悪言は未だ見たことが無く、実に恐ろしいことであり、慎むべきだ。 あなたの罪業はいたって重く、罪科を免れることは絶対にできぬであろう。 あなたと対座しているだけでも恐ろしくなってきたので、もう杖を携えて帰ろうと思う。 |