(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その8) 第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義 平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂 これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。 どうしてもうまくいかないから、そこで最後に考えたことが、正本堂建立の記念の御本尊をお願いして、その裏書きを日達上人に書かせようということであります。 それはどういうことかと言いますと、池田は「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」と日達上人に書かせようとしたのです。 ここからも、いかに大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。 日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る。そういうようにしたかったのです。??そこで日達上人は昭和四十九年九月二十日に、賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法妙に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。「準じて」というのだから本物ではない。 これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。 それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。 それから池田は四十七年十月十二日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、 「大御本尊公開の時運招来の為に奮迅」(大日蓮・昭和四七年一二月号二三n) ということを言っているのです。 つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、正本堂を公開するという意味において、正本堂そのものが事の戒壇であるという意味を、ここで言っておるわけであります。 そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。 だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきてはないと思ったわけです。 やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。 また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。 また広布第一章・第二章ということも、池田が言い出しています。 そして有名なことだが、昭和四十七年十月十二日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって「今日、大聖人様の御遺命が達成されました」というような言葉を言わせたのです。 これは聞いたことがあるでしょう。 それを、こそこそと側近の者に言わせたのだから、まあ、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。 それから、その翌年の昭和四十九年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。 さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。 この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。 つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配されておられました。 そのほかにもなんだかんだありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分達の傘下にしようと画策していたのであります。 また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと日達上人の御在世中に、このなかにこれを知っている人がいるかどうか判らないが、正本堂の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言い出したことがありました。 もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。 これについては、私も直接には知らないのですけれども、そういうこともあったと伺っております。 御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。 そういうこともありました。 ほかにも様々なことがあり、先程の賞与御本尊の問題もあったけれども、四十九年八月から十一月にかけて妙信講の処分という問題がありました。 結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。 ただ「王法」の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります。 それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということになっていますが、浅井達はその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。 その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。 しかし、今はこれを省略いたします。 この浅井の言っておることのなかには、特に「天母ヶ原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も『報恩抄文段』に、 「富士山天生原に戒壇堂を建立する」(日寛上人御書文段四六九n) ということをおっしゃっているのです。 それで浅井は「天母山の戒壇」と言っているのです。 天母山というのは大石寺の東、四キロ強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。 とにかく、「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が言っておるけれども、このようなことをだれが言い出したかということでは、文献的に確かなものはないのです。 ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。 おそらく、あとから書かれたものであると思います。 そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。 また、その意味から、由緒ある建物、正本堂等はここに建つべきてあるということをおっしゃっておったのであります。 ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。そもそも「天母山」の場合は天の母と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段』などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。 だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかも知れないが、山の上で偏狭な所です。 だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。 (続く) (大日蓮 平成16年11月号) |