日蓮正宗 昭倫寺

顕正会の主張


◆顕正会が掲げる本尊

昭和60年3月15日号の顕正新聞に次のような記事が掲載されている。

「松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた大幅の常住御本尊7幅と、日寛上人の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。この7幅の常住御本尊とは、28代日詳上人、54代日胤上人、55代日布上人、56代日応上人、60代日開上人、64代日昇上人等の歴代上人御書写の御本尊であり、このうち日布上人の御本尊が高知会館に安置されたのである」

この7幅の本尊について、元顕正会本部職員によれば、
 28代日詳上人の本尊:芙蓉会館に安置
 54代日胤上人の本尊:法要に使用
 55代日布上人の本尊:高知会館・横浜会館に安置
 56代日応上人の本尊:顕正寺(顕正会の寺)に安置
 60代日開上人の本尊:顕正会本部に安置
 64代日昇上人の本尊:未公表
となっている。
しかし、顕正会は近年になって地方に会館を次々と建て、それぞれ本尊を安置しているというが、その本尊の出所はどこなのか。
顕正会があれほど創価学会のことを悪しざまにいいながら、こと『ニセ本尊』に関してだけは口を閉ざしている理由はここにある。
顕正会が、たとえどこからか本尊を持ってきても、それは血脈の切れた本尊であり、功徳の法水は一切流れ通わない。
功徳どころか大罰を受ける所業である。
そもそも御本尊の授受に関する権能は、御法主上人唯一人であることを肝に銘ずべきである。


◆浅井の予言について

浅井は顕正会の会合で、しきりに「今に地震が起こる」とか、「今に戦争が起こる」とか、「北東アジアが攻めてくる」などと予言めいたことをいい、会員の危機感を煽る。
そして予言が外れると幹部に「浅井先生が災いをくい止めた」といわせる。
このようなやり方は、新興宗教の教祖がよく使う手で、自宗に引き入れるための脅しと騙しのテクニックにほかならない。
こうして無知の会員を次第に誑惑し洗脳していくのである。


◆顕正会員の勧誘方法

顕正会の勧誘方法は非常識極まりないものである。
例えば、学校の卒業者名簿を利用して無分別に電話し、相手と会えた時には、相手が嫌がろうと何時間でもねばって帰ろうとしない。
また、夜の駅前などでグループを作り、通行人に声をかけ、相手を喫茶店などに誘い出しては名簿に署名させ、顕正会員とする。
相手が顕正会を信じようが信じまいが、住所と名前さえ書かせれば、折伏できたとするのである。
(顕正会では平成13年現在、会員が70万人いると公称している)
特に今日、社会的に問題となっていることは、若年層をターゲットにした勧誘や、暴力的勧誘である。学校などで生徒が生徒を勧誘し、教師が注意しても聞かず、それによって退学させられたケースもあり、さらには顕正会員の教師が、学校で生徒に顕正会への入会を強要するなど、各地の教育委員会に多くの相談が寄せられている。
また暴力的な事例は枚挙にいとまなく、「入会拒否の男性を監禁」「勧誘を拒否した若者に暴力を加える」などによって逮捕者も出るほどで、新聞などにも報道され、警察には苦情が数多く寄せられている。
また、顕正会では「冨士大石寺顕正会」と自称し、正系門下の「日蓮正宗大石寺」と意図的に紛らわしい名称を使い、会員を惑わしている。


◆事の戒壇は天母山に立つべし

顕正会のいう天母山戒壇説は、京都要法寺の方から入ってきた義であって、大石寺にはもともとなかったものである。
これについて第66世日達上人は、

後世、天母山という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原もなかった。それが、日有上人の晩年の頃に、左京日教という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕われたあげく、天母原ということを言った。天母原というのは小さなところではなく、大きい広いという意味をとっておる。富士の麓の広大なる原を天母原という理想の名前に依って、自分等の考えておった理想を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に初めて天母原という名前が出てくるのである。 天母山というのは、後には天母山も天母原も混同しておるようでございますけれども、天母山に戒壇を建てようというのは、要法寺系の日辰という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山本門寺の方へ主におって、そこから天母山へ行ってそこへ戒壇を建てようとした。即ち、戒壇堂でもその時は仏像であり、釈尊の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門を建てよう。仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像となる。釈迦仏となる。そういう様な理想であった。ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。 そういう考えが残って、本山においても後に天母原という名前が大いに出てきたのであって、本当の古い時にはそういう名前はない。富士山に本門寺を建立ということは、一期弘法抄を拝してもわかることであるが、決して天母山という名前はない。ことにまた、天母山ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。この前富士宮の調査においても、古来においてはなかったということを言われておる。いつから天母山ということになったかということも分からない。おそらくそういう僧侶たちが来て、天母山と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。 いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源である。という深い信念を以て信心して項きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかということの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とは言えないのであります。

と御指南されている(戒壇論63)。

所詮、顕正会の天母山戒壇説は、本門戒壇の大御本尊から離れた不毛の論にすぎない。


出典:宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編 (諸宗破折ガイド)