(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その2) 第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義 平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂 さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。 すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この国立戒壇という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかも知れません。 実際にはならなかったから、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことにもなったかも知れないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。実行しようとすれば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰妙法が日本国に行える可能性はあった。そこで、これを言ったのが、国立戒壇という語であります。 これを、浅井昭衛が指導するところの妙信講・顕正会においては、徹底して国立戒壇を言っているのです。 彼らは絶対に国立戒壇でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。 そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。 この国立戒壇という名称は、日達上人もこの問題が起こってからずいぶんたくさん、ありとあらゆる機会におっしゃって御指南あそばされましたが、要するに、大聖人様の御書のなかに直接に国立戒壇という語はどこにもないのです。 ただ最後の『一期弘法抄』において、「国主此の法を立てらるれば」という御文があります。 この「国主」の語には人格的な意味があるが、国の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、だから国が立てるというのと、国主が立てるということは、実には意味が違ってくるのです。 むしろ、あの御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。 まして、その後において宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もないのです。 今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。 これは要するに、明治十四年四月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚しようとしたわけです。 そこで明治三十六年に講義をした『本化妙宗式目』という書があり、そのなかに、宗旨三秘」を説くなかの「第六科・戒壇の事理」という内容があるのです。 その第一項が「即是道場理壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の勅宣での意義を取ったのでしょう。 それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。 そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詔が喚発されると言うのです。つまり天皇の勅令が発せられると、一国が同帰になる。 つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。 しかも政教一致であると標榜しておるのであります。 さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。 そういう意味から、国社会が初めて、国立戒壇という語を言い出したわけであります。 それでは我が宗門でも国立戒壇ということを言っていたかというと、国柱会の田中よりあとで、やはりおっしゃっているのです。 前述のように明治に田中智学が言い出しましたが、そのあと大正年間においては、例えば日柱上人も当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかには見当たらないのです。 また日応上人の文中にも拝することができないと思われます。これは実を言うと、昭和になってから出てくるのです。 このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。 『富士宗学要集』にはその顛末が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。 ずいぶん往復の問答があるのです。 私も若いころに読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れられていないのです。 けれども、それからずっとあとの昭和になってから、また他門との問答があったのです。 その問答のなかで、「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の御本尊様を安置しなければならない」ということを述べて、その論議の時に向こうが国立戒壇ということを言ったわけなのです。 その論議においては、国立戒壇という名称に主眼があったのではなくて、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使うたものを、こちらも使ってしまったわけです。 そういうことから、宗門のなかでも国立戒壇という名称の使用が出てきたわけであります。 そこで、少なくとも昭和二十年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。 したがって、国立戒壇ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。 そのような状況のなかで、国立戒壇ということは、宗門では日淳上人が二十八歳の時におっしゃっております。 だから当然、御登座になるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。 ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず国立戒壇ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で国立戒壇という言葉を使ったというようなことだと思われます。 (続く) (大日蓮 平成16年11月号) |