(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その6) 第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義 平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂 ここで少し話を戻して、昭和四十一年に池田が、 「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される」(日蓮大聖人御書十大部講義一―一〇五七n) と言っているが、先程までは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということになるのです。 「実質的」ということの意味よりも、「事実」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。 その意味が、この四十一年七月の池田の言葉から出てきておるのであります。 さらに四十二年一月にも、 「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」(大白蓮華・昭和四二年一月号一四n) と言っている。 そして、一月二日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、これもまた言い過ぎた言葉です。 この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは事相なのであります。 先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言いきってしまっておるのです。 また昭和四十二年五月三日にも池田が、 「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮・昭和四二年六月号一三n) であると言い、また、 「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」(同一七n) とも言っている。 「いちおう」ならば「成就」などと、くだらないことを言わないほうがいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。 また池田は、日達上人のお言葉をとっこに取って、六月一日に、 「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』と、満足そうなお顔で申されました」(同・昭和四二年七月号一二n) ということをずけずけと言って、日達上人のせいにしている。 そのあとも、妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この二人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。 その時でも、学会はずるいことに、「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく猊下を障壁にする癖がある。 これは本当にそうです。 そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会の考え方だったのです。 これもまた、激励と慰撫の大きなお心からのお言葉を、とっこに取り上げて、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。 次に、七月十一日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている。 これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。 そして九月十二日 「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同・昭和四三年二月号一一n) ということをおっしゃっております。 これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。 「本当の御遺命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。 我々日蓮正宗は迹門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言っても、それが直ちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の最終戒壇だということではない意味もあります。 おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。 ただ、四十二年十月一日に、学会の教学部長であった小平芳平が、「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の全文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。 そして「あとは、不開門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。 この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、なんとかうまくごまかしていたのであります。 ともかく学会は、本当に汚くて、ずるいのです。 ところが四十二年十一月、これは「載せるから何か書け」と言われたのです。 それで高木伝道房、私、藤本栄道房、椎名法英房、大村寿顕房、菅野慈雲房等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのてす。 空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。 それから今の富士学林長の八木信螢房も、 「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」(大白蓮華・昭和四三年九月号九九n) と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを、言っていると思います。 次は、四十三年十月十二日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。 この大法要において、池田が「三大秘法抄のご遺命にいわく」(大日蓮・昭和四三年一一月号巻頭グラビア)として、 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書一五九五n) の御文を全部挙げて、「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」(大日蓮・昭和四三年一一月号巻頭グラビア) ということを言っている。 ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。 これは私が平成三年にも指摘したところですが、池田本人がこれだけ言っているのだから、和泉覚達に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを言ったのである。 あれは学会問題が起きたての時だけれども、そういうことが色々とありました。 そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに立たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。 さらに妙信講に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。 ここでまた、浅井が昭和四十五年三月二十五日に、宗務院に対して、第一回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉について、 「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義・意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」(冨士・昭和五〇年三月号三〇n) と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを、言うのであります。 そこで、四十五年四月六日の虫払大法会における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのですが、これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。 虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。 要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。 そこで、これは先程言い損ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。 学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、今はまだ、そうではないと言うのです。 ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。 つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』『一期弘法抄』の建物となるということです。 それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。 だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式の時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。 けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。 しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。 つまり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。 したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。 その辺のところが非常に微妙だったのです。 ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、四十五年四月に、谷口善太郎という共産党の代議士が衆議院で行った質問について、創価学会が照会を受けるということがありました。 これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。 それに対して学会が言ったのが、次の三つであります。 一つは「本門戒壇は、民衆のなかに仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。 次は「現在建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇になる」。 三番目に「一時、本門戒壇を国立戒壇と称したことがあるが、その本意は一の如くである」と、古来の考え方として国立ということがあったけれども、それを否定した形において、民衆によって建立することになったのであると言うのです。 だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、御遺命の戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。 しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃったのであります。 そこで日達上人が四十五年四月二十二日の時局懇談会および四月二十七日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その定義についておっしゃったのであります。 これは、御本尊が事であるから、御本尊のまします所はいずこなりとも、場所に関わらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。 我々は事の戒壇というと、やはり『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。 そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。 するとその時に、「これは御相伝である」ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。 すなわち「御戒壇説法」において、 「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」 ということがあるのです。 そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、 「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段五四三n) という御文を引かれておりました。 そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。 これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。 だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。 そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり、『三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心・唱題・折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。 (続く) (大日蓮 平成16年11月号) |