(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その3) 第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義 平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂 さて次に、総本山第五十九世日亨上人は昭和四年に書かれた『富士大石寺案内』において、戒壇は国立戒壇であるということを、はっきりおっしゃっております。 もちろん昭和四年ですから当然、欽定憲法下における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。 ところが、それから時代が進んで終戦後には、先程も言ったような形での新憲法が公布になり、国民主権となるわけです。 それと同時に、今度の新憲法においては、明治欽定憲法でははっきりしていなかった政教分離ということが、憲法第二十条ではっきり示されているのです。 政教分離だから、政治の上からは絶対に、宗教に関与してはならない。そして宗教もまた、政治を利用してはならない。 政治と宗教は全く別個のものとして、はっきり切り離さなければならないということが今の憲法なのです。 それからいくと、国民主権になっているのだから、田中智学が言ったような形での戒壇建立のため、天皇が裁可・決定するということは絶対にできないわけで、やはりこれは国民の総意でなければならないということになります。 それからもう一つは、政教分離ですから、国教にするというようなことは、今の憲法下においては絶対にできないのです。 ただ浅井は、みんなが信仰するようになれば、その時に憲法を改正すればよいというようなことを言っているようです。 もちろん、そのようになれば憲法改正ということも理論的にできないことはないでしょうけれども、しかし、その元として、「国が立てる」というところの「国」というものが、「王法」ということの解釈から言って、はたしてどうなのかという問題があるのです。 この王法ということについては、あとからも出てくるけれども、浅井の問題や色々なことがあって、『三大秘法抄』の王法をどのように考えればよいか、宗門でも色々な解釈をしたのです。 浅井は、王法というのはあくまで国の統治主権であり、その統治主権においてこの王法があって、それと仏法とが一つになるということだと言うのです。 ところが、民衆立を主張し、正本堂を事の戒壇、御遺命の戒壇というところにまで持っていこうとした池田大作の間違った野心からすると、それでは絶対に困るのです。 だから王法は、政治や経済、教育など、国民生活全般のありとあらゆるものを含んだ内容だというようなことを言っているわけだ。 要するに、それは必ずしも天皇によるのではないということです。 また実際に、この憲法が出来た以上は、天皇の力ということでは絶対にできない。 それも憲法が改正されて昔のようになれば別だけれども、現在はそういう次第であります。 そこでおもしろいのは、戸田城聖という創価学会第二代会長になった人がいました。 この創価学会というのは、そもそも牧口初代会長が創価教育学会というものを初めに作ったのです。 それが戦後において宗教法人を取得して、創価学会という宗教法人の形になったわけです。 その前は創価教育学会という一つの集まりで、別に法人でもなければ宗教的なものでもなかったのです。 ただ、その考え方が、利・善・美という哲学だったのです。 とにかく牧口さんは非常にまじめな人で、戦前において自分でかなり折伏をしたのです。 つまり牧口さんは『大善生活実証録』というものも出して、大善ということは日蓮大聖人の仏法だというようなことでやっていました。 そして皆さんも知っているとおり、昭和十八年に特高警察に捕まって、そのあと獄中で亡くなったわけです。 その後、牧口さんの最大の弟子であると同時に理解者でもあり、跡を継いだのが戸田城聖という人で、昔は城外といって、城聖と言い出したのは少しあとからです。 あの人も捕まって牢屋に入っていたのだけれども、終戦直前に解放されて出てきたわけであります。 そして昭和二十五年十一月十二日の創価学会第五回総会の時、「国立戒壇」を仏勅であると初めて述べた記録があります。 次は昭和二十六年五月三日、常泉寺で創価学会の会長就任式があり、この時にはこういうことを言っているのです。 「牧口先生は、謹厳実直な方で、わたくしとは性格が正反対で、夜なかにいたるまで先頭に立って折伏をつづけられ、会員は後の方で、ヤアヤアと掛け声ばかりであった」(戸田城聖先生講演集上五一n) つまり牧口さんは御自分でどんどん折伏をやるから、会員は後ろのほうで掛け声をかけていて、あまり折伏をやらなかったというような意味です。 そして、この次に言っているのがおもしろいのですが、 「わたくしは、先生とは反対に、後に立って、みなさんを指揮し、広宣流布に邁進したい」(同n) だから私は、自分よりおまえさん達に折伏をやらせるということを、ここで言っているのです。 ところが、その次に、 「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。 こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである」(同n) と言っている。 これは昭和二十六年だから戦後のことですので、当然、戸田さんは新憲法の意味を知っていて、その上から言ったことだと思うのであります。 だから、ここでの方法論としては戦後の憲法の内容を言っているわけなのです。 けれども、昔から来たところの国立という、田中智学が言い出した名称だけは一人歩きしているような形で存在していたわけです。 また、そのころ国立戒壇ということは、日亨上人が昭和二十五年に学会の書物のなかでお書きになっております。 特に二十六年の五月三日に戸田城聖氏が、今挙げた国立戒壇に関する発言をしたけれども、その内容は、昔のような天皇主権による天皇の許可ということではもちろんなく、国民の一人ひとりが主権であるという背景からの折伏ということを言っているのであります。 この辺は時代が違ってきているわけてす。 それから次に、二十六年には、日亨上人が『大白蓮華』に載った『富士日興上人詳伝』のなかで、国立戒壇とお書きになっておる。 また戸田氏は、このあとも講演や論文で六回ほども国立戒壇に言及しております。 また昭和三十年に初めて国立戒壇の語を池田大作が言い、三十一年四月一日には時を同じくして戸田城聖氏と池田大作が国立戒壇に言及しておるのであります。 さらに三十一年の五月一日と五月三日に、戸田・池田両名がそれぞれ述べている。そして昭和三十一年八月、三十一年十一月、三十二年六月一日に、戸田城聖氏が国立戒壇の意義を述べておるけれども、先程も言いましたように、大聖人の仰せの戒壇についての見方として国立と言うけれども、名前だけなのです。 既に戦後の創価学会の再建の時に、天皇陛下の建立ではないということを言っているのであり、ただ国立という名称だけがずっと使われていたのです。 また三十二年十二月十六日に池田大作がやはりこれを言っておりますが、これもおそらく戸田氏の考え方に基づいて、池田も当然、天皇のことではないという意味で言っていたわけであります。 それで三十三年四月二日に戸田城聖氏が亡くなって、三十三年四月三日には池田大作が国立戒壇という上から不開門を開くのだということを言っているのです。 そして三十三年五月一日、三十三年五月十八日、三十三年十二月七日と、ずっとこの国立戒壇ということを言っておるのであります。 この間、宗門の方はあまりおっしゃっておらないけれども、三十四年の一月一日に日淳上人が新年の挨拶のなかでおっしゃっております。 それから三十四年一月一日に池田大作は国立戒壇を言っておるけれども、これも一人ひとりの納得の戒壇であり、国教ということではないと述べておるのです。 これは戸田氏の考え方をそのまま受けておると思われます。 そして三十四年六月四日、ここでは国立戒壇建立のための選挙戦に勝利した旨を称揚しています。 さらに三十五年の一月一日には日達上人がやはり国立戒壇ということをおっしゃっておる。 日達上人はあまり国立戒壇ということをおっしゃっていないのだが、この三十五年一月一日の時に初めて、国立戒壇を標榜されておるのです。 でも、こういうのはおもしろいもので、国立戒壇の名称は田中智学が言い出して、先程も言いましたように天皇主権のもとの内容だったのですが、戦後においてはそうではなくて、民衆の上からの国立という形で、ずっと名称だけが一人歩きしてきたということであります。 それから三十五年六月一日に女子青年部共同研究、三十六年四月六日には日達上人がまたおっしゃっておる。 あとは、小泉隆とか秋谷城永とかが色々と言っておるわけですが、そういう形であります。 (続く) (大日蓮 平成16年11月号) |