(国立戒壇について 御隠尊日顕上人猊下様の御指南) (その4) 第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義 平成十六年八月二十六日 於 総本山大講堂 次に、正本堂ということが、これは解体されているけれども、やはり一つの流れとしてあるわけです。 皆さん、正本堂の名称は一体どこから来ておると思いますか。 これは、まず『百六箇抄』に、 「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九n) という御文がある。 この御指南が、宗門においては戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。 これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。 叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのです。 根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。 南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。 ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。 また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。 それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが『百六箇抄』にあるのであります。 けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。 どこで正が付いたかというと、これが実は日淳上人なのです。 「そんなことはありませんよ、もっと前にありますよ」という人がありましたら、私の間違いということで指摘してください。 だけれども、色々と調べた結果、三十年の十月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。 これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤録』というのを出して、宗門の在り方やなんかを色々と間違って書いたのです。 そのなかでは「本門戒壇の大御本尊は戒壇院の本尊だ」というように、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと誤解して言っております。 つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章のなかに初めて「正本堂」という言葉が出てくるのです。 そこで私が思うには、根本の『百六箇抄』の「富士山本門寺の本堂なり」という御文からいくと、本堂にはそのまま正しい御本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであると日淳上人がお考えになり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。 ところが、おもしろいのは、戸田城聖氏の著述はたくさん残っているが、その著述のなかで、正本堂ということは一カ所も出てこないのです。 全然、どこにもないのです。 だけれども、池田大作は戸田先生の遺言として正本堂を造りなさいと言われたということを言っているわけだ。 これは、池田は色々とうそを、言う人ですから、うその点も多々あるかとも思うのだけれども、私の推測なのだが、その流れから言えば、やはりこのところはそう言われたという意味もあったのかなと思うのです。 なにも池田だからといって必ずしも全部うそだと、私は絶対に言いません。 だから、そういう面も多少あったのではないかと思うのです。 (中略) ただ、実際に言ったのは三十四年の一月一日に池田大作が、国立戒壇建立の時には正本堂が出来て、戒壇の大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになるということを、はっきり言っている次第であります。 さらに三十四年の八月九日にも、正本堂へ大御本尊様がお出ましということを言っている。 このような意味で正本堂ということを言いながら、奉安殿が出来たあと、この大講堂が出来たこともあり、そのあとは大客殿と正本堂を造りなさいということを戸田氏が言ったと言っているわけです。 そして三十四年の十一月十七日には、日淳上人が御遷化あそばされました。 それから三十五年の四月四日に初めて、さっき述べたように、戸田城聖氏の遺言で正本堂を造れと言われたと、池田大作が言うのです。 だから昭和三十二年の池田の日記からすると、日淳上人が初めて正本堂と言い出されたのが三十年だから、かなり時間が短いと言える。 しかし、日淳上人が戸田氏と色々な面で話をされていたことは当時、私達もたしかに目にしておりますから、したがって、日淳上人がこの戒壇の問題について、その時は正本堂として建立すべきというように戸田氏に言われたことも、あるいはあったのではないかと思うのです。 そのようなことから、戸田氏がそのことを池田に遺言したというような経過があったとも思われます。 (続く) (大日蓮 平成16年11月号) |