(中略) 既に皆様には御承知の通り、寿量品は『太田左衛門尉御返事』に、 「寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代の聖経(しょうぎょう)の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり」(御書 一二二三頁) と仰せの如く、釈尊出世の本懐(ほんがい)たる法華経の中心・肝要なる一品であるばかりではなく、一代五十年の説法の肝心・骨髄(こつずい)であり、十界皆成(かいじょう)、即身成仏の直道(じきどう)を示された大法であります。 しこうして、寿量品がなぜ、一代諸経のなかにおいて最重要の経説であるかと申せば、この寿量品において、釈尊自身が今まで説いてきた始成正覚(しじょうしょうがく)の仏身を打ち破って、久遠の開顕を示され、もって御自身が久遠五百塵点劫以来、本有(ほんぬ)常住にして、法報応の三身具足の自受用(じじゅゆう)身、久遠実成の仏であることを明かされたからであります。 つまり、寿量品における久遠の開顕は、爾前迹門における今までの仏身に対する考えを根底から変えたもので、寿量品以前の蔵・通・別・円の四教の仏因仏果を打ち破り、爾前迹門の十界の因果を打ち破って本門の十界の因果を説き顕し、本因本果の法門を明かされ、もって二乗作仏(さぶつ)をはじめ十界互具、百界千如、一念三千の法門を示され、一切衆生出離生死の道が明らかになったのであります。 以上、寿量品について概略的に申し上げましたが、次に、ただいま拝読した御文について申し上げます。 まず、ただいま拝読申し上げました御文のうち、初めの御文は、先に、 「然(しか)るに善男子、我実(じつ)に成仏してより已来(このかた)無量無辺百千万億那由他(なゆた)劫なり」(法華経 四二九頁) と近(ごん)を破して遠(おん)を顕すなか、法説して遠を顕されたのち、譬説して久遠を格量するに当たり、初めに譬えを挙げて、弥勒(みろく)菩薩に問うところの御文であります。 すなわち釈尊は、弥勒菩薩に対して「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と示された長さについて、譬えをもってその長さを比較して、その劫数・時間を知ることができるかと問われているのであります。 つまり釈尊は、御自身の本地を久遠と明かし、その久遠とは、計り知ることができないほどの数であることを、譬えをもって示されているのであります。 (中略) 先に、 「我実成仏以来。無量無辺。百千万億。那由他劫」(法華経四ニ九頁) と法説して遠を顕されたのに次いで、五百千万億那由他阿僧祇劫の譬えをもって、法に貼合(てんごう)して、釈尊の久々遠々劫の成道を明かされたのであります。 すなわち、五百塵点劫の久遠成道を明かされたのでありますが、五百塵点劫とは「五百千万億那由他阿僧祇劫」の五百を取って、五百塵点劫と言うのであります。したがって、五百塵点劫は字面(じづら)をそのまま見れば、迹門で説かれた三千塵点劫より少なきようでありますが、「三千」とは一つの三千大千世界のことであって、「五百」は五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界のことでありますので、これを比べれば五百塵点劫は三千塵点劫よりはるかに遠く、計り知れない久々遠々劫を顕されていることになるのであります。 かくの如く、釈尊は五百塵点劫の成道を顕されたわけでありますが、ただし、この釈尊五百塵点劫の成道は法華経文上の寿量品によって述べられたものであって、釈尊の始成正覚を破し、久遠を顕すといっても、なお法華経文底からすれば、これをさかのぼること久々遠々劫の当初(そのかみ)に久遠元初を拝することができるのであります。 故に、大聖人は『総勘文抄』に、 「釈迦(しゃか)如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(御書 一四一九頁)と仰せられているのであります。 すなわち「五百塵点劫の当初」とは、久遠元初を指し、ここで「釈迦如来」と仰せられているのは、凡夫位で即座に開悟された法即人の本仏たる自受用報身如来、その御所持の法は人即法の本因下種の南無妙法蓮華経であるとの深意を明かされているのであります。 つまり、文底下種家の意は、久遠元初名字凡夫の御時を指して五百塵点劫の当初といい、教主大覚世尊五百塵点劫の当初、復倍上数(ぶばいじょうしゅ)久々遠々の昔、一迷未断の凡夫たりし時、内薫自悟して我が身はもちろん森羅(しんら)三千の万法すなわち、地水火風空の五大種、即妙法蓮華経の五字なりと即座に開悟し、本因・本果・本国土の三妙を同時に証得し給うところを久遠名字の妙法といい、また久遠元初一迷先達不渡余行直達正観事行の一念三千の南無妙法蓮華経と申し奉り、能証の人(にん)を本地自受用報身無作三身如来とも、本門寿量当体の蓮華仏とも、本因妙の教主釈尊とも称し奉るのであります。 すなわち、寿量品の五百塵点劫成道の文は、一往は始成正覚を破し、釈尊の五百塵点劫本果第一番を明かされたものでありますが、再往は本果成道の迹を破し、久遠元初自受用身の本地を顕されたものなのであります。 されば、私ども一同、この甚深(じんじん)の御指南を拝し、御本仏宗祖日蓮大聖人の広大無辺なる御恩徳に報い奉るべく、異体同心・一致団結して妙法広布へ向けて、最大限の努力をしていかなければならないと痛感するものであります。 (令和6年12月掲載) |